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『デジタルゲーム研究』1章_コメント

1. はじめに

 前回に引き続き、〈ゲームの哲学〉研究会*1でのコメントを紹介する*2。今回は他の参加者のコメントも紹介する*3

更新内容

  • 誤字の修正「基盤」→「基板」(2024/09/14)

 

2. 研究会で僕がしたコメント*4

TTL基板によるゲーム機は、低コストでの量産に向いてい」たについて(吉田 2023, 55)

  • これは『スピードレース』についての記述だが、『スピードレース』について調べた限りではこの筐体がそこまで安いようには思えなかった。
  • 例えば、Smith(2019)には次のような記述がある(面白いので直接関係ない箇所も載せておく)。
    • 「一方で、西角はAtariの『Gran Trak 10』を観察し自分自身のドライビングゲームを作ることにした。曲がりくねったトラックと複雑なコントロールスキームを持つAtariのゲームは真に楽しむにはあまりにも難しく感じたため、西角はKascoの『Mini Drive』と『Speedway』と似た『Super Road 7』と呼ばれるTaitoから1970年に発売されたリアプロジェクションのドライビングゲームにインスピレーションを求めた」(Smith 2019, 192)。
    • 「『Speed Race』のハードウェアが複雑であるため、Taitoは比較的高い金額をゲームのために請求する必要があり、スタンダードの50円ではなく100円のプレイに設定した。プレイヤーはこのような高い料金をためらうと思い、西角はオペレーターがゲームを50円か100円のプレイのどちらかに設定できるディップスイッチを組み込んだが、『Speed Race』は高価格でも大ヒットすることを証明した。『Speed Race』の成功以後、1プレイ100円は日本で何十年と続くスタンダードとなった」(Smith 2019, 192)。
  • 問題なのは二つ目の『Speed Race』が当時の標準である50円より高い100円を料金に設定していた点*5。引用箇所を見るにハードにそれなりのコストがかかったから、料金も高くなっているように読める。ゲーム産業に全く詳しくないので、ひょっとしたらのこれらの記述は矛盾していないのかもしれないが*6、ここら辺の事実関係が実際のところどうなっているのかが気になった。

6節の高さをどう表現するかという問題はスクロールの問題ではなく、視点の問題では?

  • この節では、縦スクロールゲームで高さを表現するにはどうしたら良いのかという問題設定がされているが、高さをどう表現するかはどちらかというと視点に紐づけて論じられるべき問題だと思う*7
  • というのも、高さを表現するのが困難になるのは特定の視点を採用するからであって、特定のスクロールを採用するかではないからだ。例えば、本書にも出てきた『クレイジー・クライマー』はまさに高さの概念を利用した縦スクロールゲームであると言えるだろう。
  • もちろん、ここで論じられているのは、あくまでビデオゲーム史のある時点(1970年代前半)における高さの表現への挑戦であることには注意する必要があるだろう。つまり、ここで対象となっているのは、縦スクロールゲーム全般ではなく、あくまで特定の縦スクロールゲーム群であり、それを踏まえて読む分にはこの箇所に問題があるとは言えない*8

「任意スクロールのゲームは、ゲームとしての本性上、それら〔「制限時間」〕を必要とするのだ」(吉田 2023, 68)について

  • 理屈としては、強制スクロールには実質的には時間の制約が設けられており、いずれゲームは終了するが、任意スクロールにはそれがない。そのため、どこかでゲームを終了させる必要上、任意スクロールには制限時間を設ける必要がある、ということだと思う。
  • ただ、その必要性がそれを取り除いてしまうと「もはや「ゲーム」として成り立たない」とまで言えるのかどうかは怪しいと思う。別にゲームが(クリアもゲームオーバーせずに)終わらないことにそれほど問題があるとは思えない*9
  • 少なくとも制限時間があるゲームから制限時間を取っ払うとそれはもはや同じゲームであるとは言えないというのはそうだと思う。ただ、それはゲームが変わるだけで、ゲームそのものの成立とは別の問題であるはず*10。例えば、『マリオワンダー』には基本制限時間はないが、それによってゲームが破綻しているようには見えない*11

3. 研究会で出てきたコメント

 ここでは他の参加者からのコメント(で重要だと思われるもの)を紹介する。

似たような用語が複数ある

 manjimal_sakakiさんのコメント。ものすごくざっくりいうと、1章はスクロールの観点からビデオゲームが表象する「〇〇」を論じるものだが、この〇〇の部分が複数の用語で名指されているように思われる(「画面内の空間」「ゲーム世界」「ゲーム空間」「虚構世界」)。
 manjimal_sakakiさんはこのように複数の用語を用いることで何を分析しているのかが分かりにくくなってしまう点や、これらの用語がどのような概念を指しているのか(同じ概念を指しているのか)不明瞭になっている点を批判している。特に「画面内の空間(画面にとって表象されている空間 / 世界)」と「虚構世界」を同じものとして語るのは、「ユール以降の複数のビデオゲーム論者が指摘してきたビデオゲームの二面性(例えば「ルール」と「フィクション」といった形で呼ばれる二面性)をふまえた現在の用語法からすると問題があるのでは」と指摘していた(この点は他の参加者からも指摘があった)*12

7節で論じられている「時間」とは何か

 これについては複数の参加者から疑問が寄せられた*13。ここで問題になっているのは、この説では時間の観点から強制スクロールと任意スクロールの違いが論じられているが、ここで問題になっている時間について様々な記述があり、これらを整合的に読むのが難しいというものだ。
 この節の時間についての記述をまとめるとこんな感じになるだろう。

  • 強制スクロールの場合:
     ゲーム世界内の時間の進行(持続)がゲームの側から強制的に決定され、プレイヤーはこの時間を変更することができない。したがって、ゲーム世界内の時間とプレイヤーが経験する時間が一致しない。
  • 任意スクロールの場合:
     ゲーム世界内の時間の進行(持続)がプレイヤーの進行によって決定され、プレイヤーはこの時間を自由に変更することができる。したがって、ゲーム世界内の時間とプレイヤーが経験する時間が一致する。

 ただ、ここで問題なのは、ゲーム世界内の時間とプレイヤーが経験する時間の一致がどのような事態を指しているのか、そもそも両者の時間はなんなのかがはっきりしていないことだ。ゲーム世界内の時間は、虚構世界の時間を指しているのだろうか、それともゲームメカニクスにおける時間の枠組みを指しているのだろうか。プレイヤーが経験する時間は現実の時間を指していると考えて良いのだろうか。一致についても同様のことが言える。時間に関しても少なくとも3種類の一致が言える。①日時や時刻の一致、②時間の進む速さの一致、③時間の長さの一致。例えば、ゲーム世界内の時間を虚構世界で流れる時間、プレイヤーが経験する時間を現実で流れる時間、時間の一致を日時や時刻の一致と解釈した場合、両者が一致すると言えるのは、『あつまれ どうぶつの森』などの虚構世界の日時が現実のそれを参照して決定されるタイプのゲームに限られるだろう。強制スクロールが決定しているのは実質的には時間の長さ(1ゲームあたりの時間の長さ)なので、時間の一致を長さの一致と解釈した場合でも、プレイヤーが経験する時間におけるどの期間との一致を指しているのかがわからない。


本書におけるスクロールの定義について

 あやしょうさんのコメント。『クラッシュ・バンディクー』の「手前方向のスクロール」のように、1章では奥方向への直線的な視点移動もスクロールに含めているが、このようなスクロールの定義は一般的なスクロールの理解とは異なるのではないかというものだ*14
 例えば、『コンピュータ用語辞典 第4版 英和・和英/用例プラス』ではスクロールは次のように説明されている。

表示装置の画面上に表示されているデータを上下方向(縦スクロール)又は左右方向(横スクロール)に移動し,そのデータに続く新たなデータを表示する機能.上方向にスクロールすることをスクロールアップ,下方向にスクロールすることをスクロールダウンともいう.

 また、「手前方向のスクロール」といった用法は筆者自身が提唱する定義とも整合しない。

スクロールとは、テレビやコンピュータのモニターに表示される内容物(テキスト、画像、動画など)を垂直方向または水平方向に動かして、あたかも画面内の空間が外側にも連続しているかのようなイリュージョンを生み出す技術である。(吉田 2023, 49)

 あやしょうさんはビデオゲームの場合「スクロール」は2Dゲームの背景などの平面を上下左右に動かす技術であり、背景が3DCGの2Dアクションゲーム*15に対し慣習的に使用されることはあれど、手前・奥方向への移動はスクロールの原理上ありえないのではないかと指摘している*16。あやしょうさんはその上で、少なくとも「スクロールという用語を拡張的に使用する」などの断り書きやスクロールとカメラ操作を包含する新たな用語を作る必要があるのではないかとコメントしている。
 何を「スクロール」と呼ぶかはともかく、僕は少なくとも(『ビデオゲームの美学』の用語を借りるなら)それが統語論的空間に関わる問題なのか、意味論的空間に関わる問題なのかは整理したほうがいいと思った*17

クレイジー・クライマー』が「ビデオゲームならでは」の要素を持っていると言えるのか

 1章にて『クレイジー・クライマー』は「そのコンセプトの面でもスクロールを含む画面構成の面でも、まさしく「ビデオゲームならでは」のものとして成立している」(吉田 2023, 57)と評されているが、読んでいて『クレイジー・クライマー』の「ビデオゲームならでは」要素が見つけられなかったというコメントがあった。
 例えば、『クレイジー・クライマー』では画面左端に「全体マップ」が表示され、メインの画面と左下の画面を見比べながらゲームをするという設計がされているが、こうした画面構成はエレメカエレメカにルーツを持つビデオゲームにはあり得ないという事なのだろうか
 コメントを聞いて僕もこの点について考えてみたが、筆者は以下のものを「ならでは」と言っているのではないかと思った。

  • コンセプト面のならでは性:ゲームメカニクスやフィクションが既存のゲームの模倣ではない*18
  • 画面構成面のならでは性:「目的地の存在」+「任意スクロール」により、画面外のゲーム空間を把握する必要が生じる。その帰結として、全体マップが必要になる(ならでは性は画面構成それ自体というより、画面の外を把握しながらプレイすることの方なのかもしれない)。

 とはいえ、どちらも「ビデオゲーム発」ではあるかもしれないが、ビデオゲームにしかできないかというとそうでもないと思う*19。もちろん、これは「ならでは」をどういう意味で用いているかにもよる。ビデオゲームにしかできない表現や要素を「ならでは」と呼んでいるのであれば、確かに上記の特徴を「ならでは」と言うのは難しいが、ビデオゲームのみに典型的に見られる表現や要素を「ならでは」と呼んでいるのであれば、確かにこれらの特徴は「ならでは」に数えられるだろう。

クラッシュ・バンディクー』の奥スクロールが「革新的」と評価されていることについて

 『スピードレース』や『フットボール』の時は既存のゲームの模倣であるため「ビデオゲームならでは」がないという判断が下されていたのに対し、『クラッシュ・バンディクー』の時は、「映画の演出をヒントにして、それを手前方向スクロールという革新的技法によって、インタラクティブなゲームの世界へと変換した」(吉田 2023, 74)と肯定的に評価されていて、その価値判断に一貫性がないように見える。このような指摘があった。
 ただ、これに関して僕が思ったのは、『クラッシュ・バンディクー』が取り上げられた8節の問題設定自体が他と大きく異なるため、一貫性がないのはある意味当然なのかもしれないということだ。
 8節の冒頭と末尾から読み取れる筆者の問題設定は、おそらく今後のビデオゲームがどうあるべきかということで、『クラッシュ・バンディクー』はその答えの候補の一つとして提示されているように思われる*20

これからビデオゲームに課される使命の一つは、フレキシブルな媒体として自らを広く開放し、ゲーム以外の世界で育まれるさまざまな思想や想像力を取り込み、それらにゲームとしての新たなかたちや動きを与えていくことかもしれない(吉田 2023, 74)

クラッシュ・バンディクー』の手前スクロールによりクラッシュの表情が見え感情移入しやすくなるという説明について

 手前スクロールを採用する利点としてこのようなことが挙げられているが、実際に『クラッシュ・バンディクー』をプレイした人から、手前から迫ってくる穴や障害物を避けるのに精一杯で顔を見る余裕がなかったという感想があった。これは、通常のプレイにおいて顔を見ることはないのだから、クラッシュに感情移入することはないのではないかという指摘になっている。
 ここでの分析はプレイ経験込みのものなので、その記述に個人差が生じるのはおかしな話ではないが*21、ただこの話を聞いて僕は分析の内容が映像表現(さらに言うならば映画的な見る経験)に偏っているのはもったいないと思った。つまり、映画の演出をビデオゲームに取り込むことが「逃げる」ゲームやそのプレイ経験に何をもたらしたのかまで論じることはできたのではないかと思ってしまった*22
 例えば、手前スクロールの大きな特徴として、プレイヤーに見えている情報の制約が挙げられる。ゲームデザインの観点から見ると、奥にキャラクターが進む場合、障害物は奥から徐々に見えてくるのに対し、手前にキャラクターが進む場合、障害物はある程度進んで時点からいきなり現れることになる。これが任意スクロールであるならば、プレイヤーは障害物を避けるために慎重にキャラクターを進めるはずだ。しかし、『クラッシュ・バンディクー』では大岩からに逃げる(強制的にスクロールする)ようにデザインされているため、それができない。手前に逃げるステージの持つ緊張感や難しさ(少なくともその一部)はこれらの要素の組み合わせにより生み出されているのだと思われる。

参考文献

*1:〈ゲームの哲学〉研究会に興味のある方はTwitter(現:X)のアカウントに連絡してみてください。https://x.com/GamesPhilosophy

*2:この流れが続くかは知りません...。今回は結構長くなって辛かった...。

*3:参加者から許可はいただいています。

*4:コメントは研究会でしたものを修正している。

*5:日本デジタルゲーム産業史』を見るに、『スピードレース』が1プレイ100円をはじめたこと自体は信憑性が高いように思われる。「アーケードゲームの1プレイ100円という価格設定は、1974年にタイトーが発売した「スピードレース」以降である。(武田寧氏による私的なメールによる指摘)。当時、米国が1プレイ25セント(クォーター1枚)なため、米国のアーケードゲームのプレイ料金は日本より安かった(当時は1ドル=360円なので、1プレイ90円)。この価格は日米の物価・所得差を考慮するとかなり割高だったが、米国でアーケードゲームを開発する企業が最終的にほぼ消滅したことを考えると、結果的には日本のアーケードゲームの収益性を支え、産業発展に寄与した」(小山 2020: 126)。

*6:開発するコストと生産するコストは別だとか、そもそもTTL基板一般の話しかしていないとか整合的に解釈する方法はいくらでもあるが、この場合、解釈がどうなのかより事実がどうであったかが問題だろう。

*7:さらにいうなら、厳密にはどのような表現様式を採用するかの問題だろう。

*8:つまり、単に説明がややこしいってこと?

*9:例えば、ステージが長すぎて途中セーブするポイントもないというのは、標準的な1プレイあたりのプレイ時間を考慮すると問題かもしれないが、それはステージの設計の方の問題だろう。

*10:もちろん制限時間をなくすことで慎重に操作や判断を行えるようになり、結果的にやりごたえがないほどゲームが退屈になるというのはありうるが、別に任意スクロールのゲームが全てそうなるわけではないし、そもそも制限時間があってもゲームプレイ自体にさほど影響を与えない作品も多々あるだろう。

*11:参考:https://www.famitsu.com/news/202312/20326411.html。そういえば『ヨッシーアイランド』も制限時間なかった。

*12:例えば、『スペースインベーダー』において画面が描く空間は固定的でそれ以上の広がりは持たないというのはそうだが、その一方で、「UFOはどこからやってくる」と聞かれたら「画面の外からやってくる」と答えるだろう。このように『スペースインベーダー』の作品内の世界は画面で表される空間以上の広がりを持っていると解釈するのが普通だと思う。そして、現代のビデオゲーム研究では、この作品内の世界の方を「虚構世界」と呼ぶのが一般的であるはずだ。

*13:僕はここに関しては、1ゲームあたりのプレイ時間に(実質的に)制限があるかないかを話しているだけだと思ったので特に言及しなかった。

*14:ここに関しては次の2章に登場するマーク・J・P・ウォルフの「Z軸に沿って画面の手前から奥へ、または奥から手前へスクロールするもの」(吉田 2023, 81)が念頭に置かれているのではないかという指摘があった。

*15:いうまでもないと思うがここの2Dは映像の様式のことではなく、メカニクスの様式のことだ。

*16:この点に関してあやしょうさんから次のような補足がありました。「スーパーファミコンでは拡大縮小・回転機能が実装されたので、『F-ZERO』や『スーパーマリオカート』のように、平面のマップを拡大縮小機能を使うことにより、奥から手前に実質的にスクロールさせることは可能となりました。あまりスクロールと呼んでいるのを見たことはないですが。なお、『スペースハリアー』『アフターバーナーII』『ポールポジション』などに使われている類似の表現は別の技術だと思います(ラスタースクロールなど)。」

*17:というかこの手の話はすでに『ビデオゲームの美学』で指摘されている(松永 2018, 236–240)。

*18:抽象的なゲームでない限り現実の模倣の側面は必ず含まれるので、その話はしていないと思われる。

*19:筆者は既存のゲーム(エレメカなど)の模倣から生まれた表現はビデオゲーム固有の表現ではないという想定される反論に対し、それが真であるならば、ビデオゲーム固有の表現は既存のゲームの模倣ではない作品で生まれるはずだと応答している(吉田 2023, 55–57)。この応答自体は正しいのだが、既存のゲームの模倣ではない作品から生まれる表現が「ビデオゲームならでは」であるとは限らない。「ビデオゲームならではの要素ならばビデオゲーム発の要素である」は真だが、その逆「ビデオゲーム発の要素ならばビデオゲームならではの要素である」は真ではない。「ビデオゲーム発」は「ビデオゲームならでは」の必要条件でしかない。

*20:僕はこういうタイプの規範的主張を扱うのが苦手なので、この読解が正しいのかあまり自信がない。

*21:もちろんそれを元に議論することの妥当性は検討されなければならないだろう。少なくともここではある程度一般的なプレイヤーがプレイした場合におけるビデオゲームの特性について論じているはずだからだ。

*22:1章全体で論じられている内容を考えればこれはそこまで過度な要求ではないと思う。「本章では、〔...〕スクロール技術の発展と多様性を考察し、スクロールがゲームのコンセプトやデザインに対して果たす役割、そしてそれがプレイヤーの想像力や心理に及ぼす効果を考察する」(吉田 2023, 51)。




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