以下の内容はhttps://ku3re5.hatenablog.jp/より取得しました。


2026年、ご挨拶

 

あけまして、おめでとうございます。

ブログの更新も年々減っておりますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

2025年の一文字、私は「偽」と表しました。「嘘」がはびこる社会は、あまり気持ちの良いものではありませんね。

 

昨年の12月31日、X(ツイッター)から流れてきた情報、年末年始の生活困窮者支援活動です。都庁前の食品配布に900人超、並んだそうです。

「1日1食」で耐える困窮者も…“物価高”深刻な状況が続く中、年末年始の「炊き出し」などを各地で実施しています。 食料の材料費とボランティアで提供していますが、殆ど個人からの寄付に頼る現状のようです。

 

新型コロナウイルス感染症の拡大で仕事や住居を失い、ひっそりと日常生活からいなくなる人たちがいました。社会的な支援の乏しさから、政府による「棄民」のように感じていました。そして現在も、貧富の差が解消されない中で政府がしなければならない役割は何なのかと、新しい年を迎えても考えてしまいます。

 

 

今年は、人に光を当てた平穏な暮らしを願う、そんな思いから和紙を素材にして年賀を作りました。(冒頭の画像)

 

少し頑張って作品を作り、これからはブログにも載せて内容を整理したいと思っています。

「ちいさな絵ものがたり」  第6話:「そうだ! 家出しょう」

 

 

 

 

 

 

 

お母さんは朝早く起きて、『にわとり』と『めんよう』のお世話で忙しそうです。

 

「ちいちゃん、今日ね、おじさんの畑で麦刈りがあるの。お肉も作るから帰るのが遅くなると思う。牛のお肉をもらうので、夜は『すき焼き』にしょうね。」

 

「お昼に、おにぎりを作って食べてね。冷蔵庫に たまご焼きがあるから。

それと、お菓子も焼いておいたので、おやつに食べて。 犬と猫にも食べ物をあげてね。」  「うん・・。お母さん、ごめんね」 ちい子はお母さんに聞こえないようにつぶやきながら、小さくうなずきました。

 

 

さて、ちい子はタンスを開けてお母さんが編んでくれた白い服と帽子を手に取りました。お気に入りの犬の縫いぐるみ、遊び道具の汽車、そして楽しみにしているターザンの絵本を、大事そうに風呂敷で包み終えました。

 

次は、お昼の準備です。「ケン、ミーコ、おいで。 おにぎりができたよ。ちい子の好きなナットウが、はいっているから。タマゴ焼きも。それから、おやつも。みんな、いっしょ、ケンカしないでね。」 ちい子は弁当箱に、おにぎりを5つ詰めました。 「にゃ~にや~ん、くさい!」と言いながらミーコは顔そむけています。ケンも鼻を近づけて匂いを嗅いでいますが、すぐに耳をふさぎました。いつもと違う ちい子のようすを見て、ケンとミーコはおち着きません。

 

ちい子の旅たちです。ケン(犬)とミーコ(猫)にゆっくり話しかけました。「これから、家出するの。だけど心配しないでね。お母さんが帰ってきて「ちい子は?」と聞いても「知らない」って言って。 大丈夫だよ、だからついてこなくていいから」。 

 

ちい子は風呂敷包みを背負い、外に出て、あぜ道を歩いていきました。

ミーコとケンは縁側で、ちい子が見えなくなるまで じっと見送っています。

 

                                                                                           第7話へつづく

 

「ちいさな絵ものがたり」  第5話:ちい子の決意

 

 

 

 

「ちい子、明日はおじさん家の仕事に行くの。朝が早いので、もう寝てね」

お母さんは少しイライラしています。

 

ちい子は布団に入りました。ミーコもいっしょです。

居間にいるお母さんを呼びました。「ねえ、お母さん、絵本を読んで」

 

「さっき、言ったでしょう。朝が早いんだから、寝なさい」

お母さんは枕もとの明かりをつけ、入口の電気を消して足早に出ていきました。

「どうしたのかな。ちい子 何かいけないことをしたのかな・・」

 

 

「どうしたの。いつかけても居ないし、仕事が忙しいって、どこに行ってるの?」

お母さんは電話をかけて お父さんを怒っているようです。

「もう、2ヶ月も帰ってこないでしょう。今、収穫で忙しいって分かってるでしょう。どこに行っているの。急行でくれば、まっすぐ3時間ぐらいで着くでしょうに。なに、やっているの」  ちい子は じっと 耳をそばだて きいていました。

お母さんはガチャンと電話を切って台所に行きました。

 

「いつも、いつも、やさしいお母さん、お母さんが かわいそう。」

ちい子は悲しくて、悲しくてフトンをかぶって泣きました。

ミーコが、絵本を開いて、「ニャン、ニャン、ニャ・・、ニャン、ニャン、ニャ・・」と、ちい子に読み聞かせています。

 

ちい子は、ある決心をしました。            第6話へつづく

あなたのとなりを見てください  ひろしまの子がいませんか

 8月6日に広島、そして9日に長崎へと原爆が投下されて1945年の8月15日正午の玉音放送により日本は全面的に降伏しました。9月2日に東京湾の米国軍ミズーリの艦上で日本の降伏文書調印式が行われて第二次世界大戦は正式に終結したのです。約6年間(1939年9月~1945年8月)に及ぶ世界規模の戦争でした。

 その悲惨な戦争で犠牲になった死者数は軍人と民間人を含めて数千万人にのぼると言われています。原爆や爆撃におびえ、また飢えの苦しみは想像を超えます。 「飢え」で思い出しましたが、被災地を見学していた小学生が「食べ物はコンビニ売っているでしょう」と。戦争がどんなものか、想像がつかないのでしょう。

 

 元衆議院議員藤井裕久さんは、田中角栄元首相の「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ。経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ―」の言葉が根っこにあり、政界引退後も各地を回って語っていたそうです。 

今年の参議院選挙で「核武装は安上がり」との発言もあり、怖さを感じています。

 

終戦記念日にあたって朗読詩をご紹介します。(冒頭の画像)

朗読詩『ひろしまの子』(詩 四國 五郎  絵 長谷川義史  2025年7月20日 BL出版株式会社)

一部を引用します。ひろしまの子に、ながさきの子、ガザの子・・も、いるでしょう。

★昨年の夏に紹介記事をアップした、広島出身、画家、詩人の四國 五郎さんについて

★『反戦平和の詩画人 四國 五郎』 著者 四國 光 (1956年広島市生まれ。四國 五郎の長男)

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<「はだしのゲン」創作の真実>(2)          (先の投稿(1)より続く)

『「はだしのゲン」創作の真実』 著者:大村克己(写真家) 2013年11月25日(中央公論市 新社)

 

   大村氏は2013年3月に所沢の中沢邸を訪ねました。妻のミサヨ氏に会うのは初めてとのこと、「中沢作品のすべてを知り尽くしている奥様から、自分が読んだ印象的なシ ーンのエピソードを聞けるというのは、とても贅沢な時間でした。・・」

 そして、訪問目的の「中沢先生の追悼本を創らせていただきたいのです」との申し出に、本の制作にあたって、奥様から出された条件はただ一つでした。

「大村さん、あなたが著者であるならば、いいですよ。 それは、自分自身は中沢啓治という漫画家の妻であり表現者として表に出ることをよしとしない、という強い意志でもあったのだと思います。・・この約束が守れないときは、私の考えている本が世に出ることはないと感じました。」(エピローグ 192頁~193頁より)

 

<『「はだしのゲン」創作の真実』構成>

⓵ 扉の2頁~8頁は写真集(「中沢啓治―思い出の写真」)

 両親との写真、 34歳時「週刊少年ジャンプ」に『はだしのゲン』を連載開始、 38歳時「文化評論」に『ゲン』を連載、 原画や原画展の様子、 晩年の様子など、美しい写真集です。

 

⓶ 目次(インタビュー編)

 第1章「はだしのゲン」初代担当編集者の証言(元「週刊ジャンプ」編集者・山路則   隆氏)

 第2章 人生の伴走者、妻・中澤ミサヨ氏の証言

 第3章 中沢啓治全作品の寄贈を受けて(広島平和記念資料館前館長・前田耕一郎氏)

 

 

⓷(特別収録編)

(1)はだしのゲン」第2部の草稿 (最後の頁までセリフがふってあり、ところどころに絵のポイントがメモ書きしてあります。)

中沢さんの構成では、*「はだしのゲン」第1部「原爆編」<ゲンが被曝してから妹が亡くなるまで> *第2部「戦後編」<ゲンが看板屋での修業を経て東京に旅立つ> *第3部<それ以降を書く予定>を構想していました(わたしの遺書より)

 

(2)「黒い雨にうたれて」 作品(157~186頁  中沢さんの原点です)

「母親の死で広島からの夜行列車で東京に戻り一睡もせず、白い破片が点々しているだけの骨をみて、「おふくろの骨を返せ!!」、「絶対に許さんぞ!!」と心の中で叫んでいました」 

「エレージ(哀歌)ではだめなのです。絶対に怒りなのです」

 

(中沢さんは日本政府だろうが米国政府だろうが、戦争と原爆の責任を追及してやる、漫画の中で徹底的に闘ってやる!!と覚悟を決めました。普段は短編に1ヶ月かかっていたようですが、1週間で原爆漫画第一作となる「黒い雨にうたれて」を書き上げたのです。ストーリーは被曝した青年が悪徳米国人だけを狙った殺し屋となる復讐劇です。最後の頁の1コマにメッセージが書いてあります。

 

 

★中沢さんの情熱をささえていたのは、「ふまれても ふまれても たくましい芽を出す麦のようになれ」と、父親がよく話していたこと。そして原爆投下への怒りです。その思いが好きな漫画で描くという形で実現しました。中沢さんは、「『はだしのゲン』は、わたしの遺書です。わたしが伝えたいことは、すべてあの中に込めました。」

中沢さんの願いは、映画化、アニメ化し、20ヵ国語ほどの翻訳で各国に広がっていきました。世界での戦争や紛争で脅かされる大人、そして子供たちにも、これからも読み継がれていくと思います。(長文を読んでいただきまして、ありがとうございました)

 

<「はだしのゲン」創作の真実> (1)

  暑い日が続いていますね。7月31日の岡山県高梁市では40.4℃を観測とのこと、8月2日の情報では群馬、広島地方で40℃超え、現在も東北~九州地方など猛暑日が続出し40℃超えの予想も。大変ですね。北海道でも24日の道東方面を中心に北見では39.0℃、統計史上年間を通して最も高い記録となりました。

  さて、今年は第二次世界大戦後、80年目の節目になります。1945年8月6日に広島へ、また9日には長崎へと原爆が投下されました。この暑い時期になると世界の汚点のように辛くなります。戦争のない平和な暮らしを願い、今年も読んだ本を紹介したいと思います。

 

『「はだしのゲン」創作の真実』著者:大村克己(写真家) 2013年11月25日(中央公論市 新社)

<著者の紹介> (1965年静岡県生まれ。大学在学中から活動を始め、86年APA展入選。同年JPS展で金賞(グランプリ)受賞。99年ニューヨーク・ソーホーのギャラリーにデビュー。2002年日韓文化交流記念事業「済州島」作品展を韓国と日本で発表。2009年~2012年、「NEWS ZERO」展を開催など。現在はよみうりカルチャー荻窪にて「大村フォトアート」講座開講)

 

はだしのゲン』作者の中沢啓治さんは1939年3月に広島市に生まれました。6歳の時に小学校で被爆し奇跡的に助かりました。混乱状態で小学校から自宅近くまで走り路地に入ると火の海が押し寄せ、本能的に電車通りに引き返し自分は孤児になったんだと、恐怖感につぶされそうになります。通りで近所のおばさんから声を掛けられて母親が生きていることが分かりました。母親の話によると、家族は倒壊した自宅の下敷きになり、炎が迫ってくると父親は早く逃げれ、という。姉のうめき声、助けてという弟の声、あっという間に火の海になり狂乱のようになっていた母親は近所の人に引っ張られるように逃げたのです。2人は生き延びたのです(母親はみごもっていました) 2階の物干し台にいた母親は爆風で飛ばされて助かったのです。最後は脳内出血になり3年間原爆病院に入院し60歳で亡くなりました。 

原爆投下から21年、「原爆というやつは、大事な大事なおふくろの骨の髄までうばっていきやがるのかと、はらわたが煮えくり返りました。・・・たった原爆一個のために、どれだけ多くの人間が殺されたか。その後もどれだけ多くの人々原爆後遺症に苦しめられてきたか。」(「わたしの遺書」より)

 忘れたかった原爆の体験を、母親の死がきっかけで「はだしのゲン」が誕生したのです。

 

 『「はだしのゲン」創作の真実』は、『はだしのゲン』がどのように生まれたのか、世界中にひろがっていったのか、著者の大村克己氏が取材を通して真実を著したものです。 

2011年の8月 「あの戦争を振り返る」の企画のため、ニュース番組をテーマに撮影を撮り続けていた著者は広島に同行し、この取材中に「はだしのゲン」原画も撮影しています。

2012年12月19日、中沢啓治さんは肺がんで亡くなりました(73歳) 糖尿病、そして白内障から視力低下になり、2009年に創作を断念しています。

 「ゲンは、僕自身です。漫画家仲間からも、おまえの漫画は邪道だ。子どもにああいう残酷なものを見せるな。と叱責がありました。けれど、僕は原爆をあびると、こういう姿になる。という本当のことを、子どもたちに見せなくては意味がないと思っていました。原爆の残酷さを目にすることで決して許してはならない。と思ってほしいのです」 

                        (わたしの遺書179~182頁)

 

 2013年3月、著者の大村氏は所沢の中沢邸を訪ね、妻のミサヨ氏に「中沢先生の追悼本を創らせていただきたいのです」

                (『「はだしのゲン」創作の真実』(2)へつづく)

 

 

「ちいさな絵ものがたり」 第4話:おしごと

 

「お~い、ちい子、ほら「かれい」を釣ってきたよ」

きのう、仕事が終わって遅く帰ってきたお父さん。朝早く海に行って魚を釣ってきました。 「体に気をつけろよ。あまり無理するな」 いつも隣のおじさんは言うけど、お父さんは 元気です。

 

お母さんは毛糸を作って、お店にもっていきます。春には「めん羊」の毛を刈りとって糸づくりをします。

寒くて、もくもくと着こんでいた「めん羊」は、おとなしく毛を刈り取ってもらい みがるになって元気いっぱいに動き回り牧草を食べます。クローバーが大好きです。

 

「お母さん、ちい子ね きょうは「つくし」をとってくる」「そう、それでは 今晩のおかずは玉子とじにするね」 ちい子はニワトリ小屋のとなりの畑で、フキノトウ、セリ、みつば、タラの芽、つくし・・なんでも採ってきます。おかあさんがご馳走を作ってくれます。

 

太陽が高く上り、青空がひろがってきました。きょうは、ちい子も糸づくりのお手伝い。お母さんが紡いだ糸を お父さんが洗い しぼったのをもってきました。物干し竿でゆらゆら動く糸の束を見て ちい子はうれしくなりました。

 

物干し竿の近くで、お父さんが釣ってきた魚や畑の穴から取り出した野菜を干しています。「カァ~カァ~・・」そうぞうしい。エモノを狙うカラスがすれすれに羽根を広げて降りてきました。ケン(犬)と、ミーコ(猫)は、いっしょうけんめいカラスを追い払っています。「ゥワワ~ワンワ~」 ケンは、カラスを威嚇して追いかけ回っています。 ミーコはカラスをにらみつけながらも ちゃっかりと ふところに 魚を抱え込んでいました。どこにもっていくのか・・。

                                                                                               (第5話へつづく)

 

 

「ちいさな絵ものがたり」第3話:春さき

 

 

 

“コケコッコー” おんどりが、大きく鳴いて朝を告げています。さあ、わただしい一日が始まります。お母さんは朝食の準備をしたあと、ニワトリ めん羊に食べ物をあげるために 急いで小屋に行きます。

 

「ちい子、起きて! 鶏小屋の戸を閉めてね」

「う~ん・・・、ねむ……」ちい子は布団を引っ張りながら いつの間にか眠ってしまいました。

「ダメ、ひっぱたら・・」髪を食べているニワトリを手ではねのけて、はっと目が覚めました。「夢? あっ、戸を閉めなきゃ」ちい子は慌てて外に飛び出しました。

 

「コケコッコー」とあたりを見回して、おんどりが鳴いていました。2羽のめんどりは 草を美味しそうに食べていました。小屋の中では9羽のめんどりが 頭を振り振りして食べています。ちい子は数えながら 12羽いたのでホッとしました。

 

小さな声で、「コッコ コッコ コッココケー・・」と2羽のめんどりを そーと戸口に誘って中に入れました。見ていた おんどりも 中には入っていきました。

 

「ありがとうね おんどりさん」

 

遠くに見えるお家や畑をながめて、お兄ちゃんたち(いとこ)も起きたかな。

「♪ ココココ コケッコココココ コケッコ 私はミネソタの卵売り・・♪」唄いながらちい子は お家に帰りました。

 

                      (第4話へつづく)

 

< 人を殺すのは「災害」ではない。いつだって忘却なのだ >

画像を追加しました。

東日本大震災後、今年で14年目>

2011年3月11日14時46分頃に発生した「東日本大震災」、テレビの映像で想像を絶する地震による津波の怖さを今も忘れることができません。あの日から2025年3月で14年目になります。警察庁の発表によると3月1日時点で(全国で死者が1万5900人 行方不明者が2520人 被災3県で遺体の身元が特定できないのは53人 2024年3月から増減なし)。現在も震災による行方不明者が2520人、「行方不明」という言葉は、何年経っても受け止めることができない辛いものだと思います。生きてきた証が突然泡のように消えてしまったのです。 今年も祈り忘れないために本を読みましたのでご紹介します。

 

< 住んで、泣いて、記録した――。>

⓵『南三陸日記』三浦英之著者(朝日新聞記者 2012年3月に朝日新聞出版より刊行) 

東日本大震災直後の転勤先は、宮城県南三陸町。取材を続けて朝日新聞に連載され  た「南三陸日記」の8年後に「再訪2018年秋」を加えて、文庫版で出版(2019年2月25日出版 集英社) 

  ★現状の惨事を切り取った写真。言葉少なめに綴っていく涙なしでは読めない、今読み返しても瞼が腫れてくるのです。悲しい現実。それらの写真から そっと寄り添う温かな眼差しを感じとることができます。

序章に「津波までの30分。そう思う度に、胸が張り裂けそうだった。「30分は」決して長くはないが、何かしらの対策を講じることができた時間だからだ。その与えられた時間を有効に使える対策や手だてを、私たちは事前に準備することができていただろうか。」と、問いかけています。

 

< 人を殺すのは「災害」ではない。いつだって「忘却」なのだ 

⓶『災害特派員 その後の「南三陸日記」』三浦英之著者(2024年11月25日出版 集英社 

 ★今回、ぜひ読んでいただきたいのは、その後の「南三陸日記」です。

解説に、ジャーナリストの清水 潔 氏は「人を殺すのは「災害」ではない。いつだって「忘却」なのだ」。」と、著者の言葉を引用し、「あらためて、序章に書かれているこの一文はとても重い。彼が取材中に何度も目にしたのは明治や昭和の三陸津波を忘れさせないための石碑だ。この地に再び大津波がやってくることを知っていた先人たちが残したもの。…被災地に一年間住み続けた三浦記者の結論と、この石碑の存在に強く重なる部分を感じるのだ。)

 

<第七章 新しい命> 

文庫本のあとがきに「そして、わずかに視線をあげた時、私の構えている望遠レンズと目が合った。“頑張れー”リサト、一二歳。本作品の第七章「新しい命」に登場する、涙の海から生まれた少女である。」(297頁)

「いつかこの写真を「災害特派員」が文庫になる際の表紙に使いたいと思った」(300頁)

 

(命の記録。①『南三陸日記』の表紙は、小学校入学の際。)

      ⓶『災害特派員 その後の「南三陸日記」』の表紙は、中学校の入学式 (★冒頭の写真)

 

★読んでいただきありがとうございました。

 

 

<ちいさな絵ものがたり> 第2話:冬はお家でのんびりと

明けましておめでとうございます。みな様はお正月をいかがお過ごしでしょうか。

あたらしい年には戦争がなくなり、平和で当たり前の暮らしができるよう、

心から願うばかりです。

さて、小さな絵物語りは和紙を素材に描いて話を添えていますが、予定は第10話まで計画しています。なかなか進みません。今年は少しずつ頑張ってアップしていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

第2話 <冬は、お家の中でのんびり>

 

  凍てつくような寒い冬も、2月の下旬頃には和らぎ 窓から日差しが入り込んできます。

いつものように、お母さんは巻いた「めんよう」の糸を木箱から取りだして編みはじめました。ちい子の帽子や服も編んでくれます。

ちい子もマフラーを編みながら、お母さんとお話をするのが大好きです。

「夏にね、たまごの小屋で蛇が動いていたの。もう、びっくりして三寸も飛びあがったの」ちい子は両手をうわーとあげて「すごく、飛んだの」 

お母さんは「そう、飛んだんだね」と、親指と人差し指をすーと広げて見せてくれた。「なんか違うのかな・・、あんなに飛んだのに」と、ちい子はおかしいと思った。

 

「ちい子ね。雪のうねに炭を植えてきたの。いつ、カボチャができるかな」 おかあさんは首をかしげながら「あのね、ちい子。ジャガイモは種イモから、カボチャは種からと、同じ仲間からできるの。お父さんとお母さんがであったから、ちいちゃんがいるの。難しいね、ちい子には。もう少し大きくなったら教えるね。雪が解けたらカボチャの種をあげるから、植えてね」

「うわ~、お母さん、また穴があいた」ちい子は、足をバタバタさせて編みかけのマフラーをつきだした。「どお~れ。あら、ほどけない。穴をあけるのが上手ね」お母さんはマフラーをひっぱりながら、笑っている。          (第3話につづく)




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