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40代の軌跡 仕事編 - 人との絆が紡いだ異国での10年

アメリカでの40代の幕開け

2013年の11月。肌寒い夕暮れのラーレーダーラム国際空港に家族と降り立つ。パンパンに詰まったスーツケースをレンタカーに詰め込み、ナビを頼りに慣れないアメ車でホテルに向かう。私の40代は、そんな一コマから始まった。

 

当時、息子は5歳で、娘は8歳。30代頭に日本からアメリカに移住することを決意し、時間はかかったが30代が終わりに差し掛かろうという時に何とか実現までこぎつける。「新しい異国の地で、家族と幸せな生活を築き上げる」、これは40代の目標というよりも、家族と共にアメリカに移住をすると決断した私にかせられた命題であったと、今となっては思う。

 

私の40代は、アメリカでの生活の基盤を作り、新しい職場やコミュニティで人間関係を築いて生活を軌道に乗せ、このアメリカで自分だけでなく家族が幸せに過ごせるような暮らしを確立する、そんな挑戦に家族と共に取り組んだ10年であった。

50代の始まりに際し、私のそんな40代の軌跡をシリーズで綴りたい。まずは「仕事編」から。

 

本社勤務のプレッシャーと英語の壁

何につけても生活の基盤となるのは仕事だ。もちろん、家庭生活を疎かにしてよいわけではないが、仕事を疎かにしては家族との生活がそもそも成り立たない。私は「勤め先の外資系企業の本社に転籍」という形で移住を実現した。とにかく、本社で「欠くことのできない戦力」にならなければ、日本に戻されるだけである。いや、日本法人には退職届けを提出して転籍しているので、戻されるどころかクビになって終わりだ。

 

仕事で英語を6-7年くらい日本で使っていたとはいえ、所詮日本法人での話だ。アメリカに来て、朝から晩まで、そして昼飯まで英語の環境というのは、30代から本格的に実践的な英語に取り組んだ私にはかなりしんどかった。聞いた英語を日本語で解釈し、考え、また英語にする——その変換作業を一日中求められる環境。慣れないうちは、15時くらいには、脳がぷしゅぷしゅいってきて、疲れでキーンと頭が痛くなる毎日だった。また、言語の壁に阻まれ、思ったようなコミュニケーションできず、当然思ったようなパフォーマンスをだすことができなく、しばらく苦しい思いをした。

 

本社で各地域を取りまとめる部署に所属していたため、北米だけでなく、ヨーロッパ、ラテンアメリカのチームとの調整が求められた。もちろん、同じ会社なので、協力関係にはあるのだが、本社機能というのは各地域の利害調整や要求や提案を選別することも求められ、利害対立をすることもままある。互いに押したり引いたりする中で、「あいつの英語はよくわからない」という声が寄せられた際は、大いに凹んだものだ。仕事の品質の問題であれば、頑張って何とかする自信はあったが、英語だけはどうしても努力で乗り越えられる確たる自信が持ちきれなかった(それは今でもそうだが、、、)。

 

上司の支えと成長の転機

そんな苦しい時も、その時の上司は仕事面でも精神面でもフォローしてくれた。「俺は君の英語がわからなかったことは一度もない、気にすんな」と折に応じてケアしてくれた。そうは言いつつも、彼は役員向けのレベルに達していない私のメールを逐一、きれいな英語に直してくれた。そういう温かい支援がなかったら、多分40代をアメリカでフィニッシュすることなく討ち死にしていただろう。彼とは今は会社も住んでいる州も違うが、折にふれて連絡をとっている。今の自分があるのは、つながった人たちの支援があってのことだと痛感している。

 

日本法人では、部署のリーダーとして10名以上のチームをまとめていたが、アメリカでいきなりマネージャーはしんどい。なので、給料を下げて一兵卒としてキャリアを再スタートさせた。自信のない英語で、要求の多いアメリカのチームをまとめていくことなど想像もできなかったので、妥当の選択であった。が、管理職業務から開放され、自分の仕事にフォーカスすれば良いという状況は追い風になった。そのお陰か仕事の立ち上がりは苦労しつつも、悪くはなかったと思う。

 

渡米当初は右も左もわからない中で言語のハンデを抱えながら苦労をしたが、1-2年すると仕事のペースを大分つかんできた。余力ができた分だけ、仕事の品質をあげることができる。余力ができるに従い、自分個人の役割を超えたチームプレーを心がけ、それによって幅広い層から信頼を集めることができた。管理職経験を活かしつつ、日本人らしい「和と協調の姿勢」は自分の一つの武器になった。

 

さらば気楽な一兵卒の日々

仕事も順調にこなし、かなりゆとりがでてきたぞ、という頃に上司とその上司から個室に呼び出される。机を挟んで笑みを称える二人。嫌な予感がする。口火を切ったのは上司の上司。

いつも素晴らしい仕事をしてくれてありがとう。君の仕事そのものにも助けられているが、君の姿勢はチーム全体に非常に良い影響を与えている。そこでだ、その君の良さをもっと活かすために、君にチームを持ってほしい。

うぎゃぁ、思った通りの話だ。余力があるのがバレたか、と正直思った。評価は大変ありがたいし、チームにもっと貢献はしたい。だが、もう少し個人プレーを楽しみたいという欲と「果たして自分がクセの強いアメリカ人をまめていけるか」という不安も正直あり、

いつも助けてくれてありがとう。大変ありがたい話だけど、責任ある管理職の仕事を、私のような英語が下手くその人間がすると、人事考課などもあるわけだし、メンバーも困るのでは、、、

と本音をもらしつつ、抗弁を試みた。が、渡米当初から私をフォローしてくれた上司は、お前はそういうと思っていたよという感じに

いつも言っているだろう、俺は君の英語がわからなかったことは一度もない。全く問題ないし、君ならできるさ。もっと自信を持て!

とニヤリと笑う。

詰んだ、、、

これはもうチャレンジするしかないと観念し、アメリカでのキャリアを一歩進めることとなる。

 

アメリカ流マネジメントに四苦八苦

管理職となり、日本とは異なるカルチャーショックがいくつかあった。まず、週イチのチームメンバーとの個別面談で、

自分の給料をあげてほしい、もしあげることができないのであれば、何ができるようになれば給料があがるのか示してほしい

とよく言われることだ。アメリカは日本と異なり、労働市場が活発なため、有能な人をつなぎとめるには、常に昇進や昇給へのサポートを求められる。これは正直疲れるし、面倒くさく、当初はかなり面食らった。色々会話を重ねながら、「メンバーの経験値の向上、昇給、昇進を常に気にかけている」というサインを折に触れて送ることが大事なことを学んだ。先手先手をうって、意識しているよという態度を示せば、面倒な会話が突如発生する事態をさけることができる。

 

もう一つは、「部下を働かせすぎてはいけない」ということだ。お世話になっている上司から、ある時またまた小部屋に呼び出される。

君のチームの彼が、あそこの部署に移ることを決めたらしい。移籍先の部署の仕事の魅力を俺に語っていたが、本当の理由はそれではないぞ。君は遅くまでチームを働かせすぎなんだ。この前だって、緊急でない件で彼を18時まで引っ張っただろう。仕事柄、もちろん遅くまでやらないといけないことはあるが、急ぎでもない仕事を遅くまでやらせれば、他の15~16時くらいで切り上げる部署に目移りするのは当たり前だ。ここは日本じゃないんだから、もっと気をつけてくれ。

「いや、18時ってまだ就業時間内なんですが、、、」という声が喉元まででかかったが、そういう問題じゃないということは、上司の助言と周りの働きぶりからわかっていた。

 

確かに私は本社の他のチームよりも張り切って働いていた。アジア地域で働いた経験から、本社側の対応が早ければ、各地域の負担は格段に軽くなることを知っていたからだ。そういう意識が本社にも根付くと良いと思っていたが、周りがついてこれなかったようだ。チームが崩れては元も子もない。郷に入っては郷に従い、無理は強いないようにした。

 

悪戦苦闘の末、見えてきた景色

こんな感じで悪戦苦闘している内に、多くの支援をえながら、「欠くことのできない戦力」として職場で認められるようになったと思う。ペースは早くないものの、地道に昇進や昇給をしてもらい、気づいたらジョブセキュリティを気にすることはなくなっていた。


残念ながら、英語は今だって下手くそなままである。だが、タイミングははっきり覚えていないが、ある時から「英語と日本語を変換」というステップを挟まず、仕事の英語をダイレクトに脳からアウトプット、インプットできるようになっていた。英語による脳への負担が減少していったことは大きな進歩だ。

 

その後も、転籍してからずっとお世話になっていた上司の退社、勤め先のM&A、自らの社内転籍、など様々なドラマの連続であった。が、来たばかりの頃は「右も左もわからない日本人」であった私も、本社で「古株」として扱われるようになっていった。そして、本社に転籍して10年程たったタイミングで、日本法人から通算して15年お世話になった会社を退職し、転職をすることになる。

 

アメリカでの転職というマイルストーン

アメリカでの転職は、私にとってはキャリアの大きなマイルストーンだ。10年前は、私の英語力で、自己PRがうまいアメリカ人を押しのけて、中途採用でアメリカ企業のポジションを勝ち取るなんて、想像ができず、「社内転籍」が唯一の道であった。アメリカでの色々な経験を経て、アメリカの現地企業会社から現地企業への転職をついに果たすことになる。これは、私にとっては「アメリカの労働市場で認められた証」であり、無事オファーレターにサインした際、「あぁ、これが自分の40代の仕事のまとめか、われながらよく頑張ったなぁ」と感慨にふけったものだ。

 

人との出会いが全て

40代の私のアメリカでの仕事の軌跡を振り返ってきた。あらためて振り返って思うのは、「誰と一緒に仕事をするか」が自分には一番大事ということ。「この出会いがあったからこそ、この会社を選んで本当によかった」と思えた瞬間が何度あり、そういう方々と苦楽を共にしながら、難しい仕事を乗り越えてきたことは、私にとっては大きな財産だ。転職の決め手となったのも、「この人と一緒に働きたい」という思いだった。今後も人とのつながりを大事にしていきたいし、自分が他の人にとってもそんな存在になれたら、自分のキャリアに一遍の後悔も残らないだろう。




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