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30代の軌跡 ‐ ビジョンとチャレンジ、その結果えたこと

この5月、気づけば私は50歳になってしまった。
これからこのブログでは、50歳を迎えた節目として「40代の軌跡」を少しずつまとめ、公開していこうと思う。

ただ、その前に――10年前、30代の終わりに書き残した一つの記事を再掲したい。
当時、米国に移住したばかりで、右も左もわからない中、家族とともに新しい生活を始めた頃の自分が、30代をどう振り返り、どんな思いでこれから歩む40代にのぞもうとしていたのか。

これからの「40代の記録」の序章、そして振り返りとして読んで頂けると幸いです。

 

30代の軌跡 - 目標を叶えたその先で

思うところがあり昨年の11月に家族共々米国に居をうつした。これは私の30代の大きな目標の一つであり、何とか形にすることができ安堵感を覚えている。ここしばらくその活動のフォーカスしていたため、ブログがすっかりほったらかしになってしまったが、一つの区切りをむかえたことを機にこれまでの30代の自分の軌跡をまとめてみたい。

 

はじまりの言葉

よいビジョンはたんなる響きのいい言葉の羅列ではない。それは、あなたが心から達成したいと思っている成果の確固たるイメージなのだ。
トーマス・マローン著 『フューチャー・オブ・ワーク』

自分の30代を振り返るに、出発点はこの言葉だった。30歳になり、仕事は超多忙ながらも順風満帆、結婚もして、子どももでき、「さぁ、これからどこに向かっていこうか」と考え始める。自分の天職は何か、適性は何か、キャリアのビジョンはどうあるべきか、なんて切り口であれこれ考えるが、あんまりいい答えに巡り会えない。
Steve Jobsのスタンフォード大学の卒業式のスピーチが流行った頃で、天職につくというより、それを探し求めることが是という風潮が今思えばあった時期だ。「これが俺の天職です」みたいなブログエントリーにはてなブックマークとかが一杯つくのを横目に、色々考えるものの自分が満足いくような解には至らず、悶々と悩む日々を過ごす。

 

そんな中で、「よいビジョンはたんなる響きのいい言葉の羅列ではない。それは、あなたが心から達成したいと思っている成果の確固たるイメージなのだ。」という冒頭の言葉にであう。天職、キャリアなど仕事の枠の中からのみビジョンを作ろうとしていた私には目から鱗であった。仕事にとらわれすぎると『心から達成したいと思っている成果の確固たるイメージ』から遠ざかってしまうように感じ、妻や子どもも含めて家族としてどうなっていたいのかを考えるように視点を切り替えた。自分にとってどんな経験が素晴らしいものだったのか、何をしている時に楽しいと感じるのかを考え、妻と対話をし、キャリアの良きアドバイザーに助言を求め、見栄や外連味を排除し、自分に問いかけつづけた。結果として

カリフォルニア州サンノゼ近辺で悠々自適に暮らし、50歳までには毎日仕事をしないといけない状態から足をあらう

というビジョンを掲げ、そこに向けて走ることにした。
「それは無理なんじゃない?」という人もいれば、
「何だよそれ、、、甘いな〜」という人もいれば、
「素敵で、楽しそうだね、頑張って」とうい人もいて
リアクションは色々だったが、
「自分が心から達成したいと思った成果のイメージ」なので周囲の評価はあまり気にならなくなっていた。

 

英語への挑戦 ‐ 聞けない、話せないからの脱却

ビジョンが決まったので、そこに到達するためのロードマップを練り、それを実現するための現状の課題を洗い出していった。細かなものも色々あったが、最大の課題はとにもかくにも英語。多少読めるが、聞き取れない、しゃべれない、という典型的なパターン。日本語だと饒舌なのに、英語になるとその場からいなくなったように微動だにしないと揶揄されたことも。過去に何度か取り組んだことはあったが、突き動かされる何かがあったわけではないので、形にはならなかった。

 

まだ手の届く感のつかめぬビジョンをにらみつつ、毎朝5時に起き、出勤前に毎日1時間半勉強し、通勤時間にパソコンや携帯で仕事をするのは禁止とし、通勤時間も可能な限り英語の勉強に時間をあてた。フォーカスすることにあわせて時間の使い方をドラスティックに返るという考え方をとりいれたのはこの時期からだった。

 

座学をかなりやりこんだが、それを活かす場がないとなかなか英語は身に付かない。当時のコンサルタントという職を継続しながら、英語を実務として活かす場を作ることを試みたものの、これは現実的ではないという判断を下すのにそう時間はかからなかった。新卒の頃から取り組んできたコンサルタントという仕事は大好きだったが、英語を使う機会のあるプロジェクトに英語のできない自分が関与し、高いフィーを頂き、それに見合う高い価値をお客様に提供し続けることは難しい。なので、即座に成果の求められる社外のお客様を相手にする仕事ではなく、多少ためのきく社内で英語を使う仕事を探し、部署異動をすることに決めた。

 

グローバルな大企業に勤めていたことと社内にも良い人脈があったことが幸いし、幸運なことに複数の部署からオファーを頂き、無事に異動することができた。今から振り返ってみて、この選択はその後の方向を決める非常に重要なものであった。第一線で価値をお客様に提供する社外の仕事から社内のみの仕事に切り替えることに躊躇はあったが、ビジョンに即して歩を進めることにした。

 

「キャリアアップ」という言葉はある種の思考停止ワードなので気をつけたほうがよい。その言葉にとらわれすぎると、給料が下がったり、職位が下がったり、仕事のレベルが下がったりすることを極端に避け、現状の瞬間最大風速をあげることのみに焦点があたり、結果として将来の選択肢を狭めてしまうことになりがち。目先の昇進、昇給におわれるのではなく、長期的な視点にたって、次にうつ布石を決めることは非常に重要。地力を養うために多少のステップバックも許容する「キャリアの踊り場」を作ることは、キャリア形成上の検討すべき大事な選択肢だ。

 

不純な動機が拓いたキャリアの転機

英語を勉強したいという不純な動機で異動した部署では、幸いなことに仕事、人にものすごく恵まれ、非常に充実した日々を過ごすことになる。懸案であった英語も座学をやり込んだ成果もあり、年の割りにはメキメキと伸びていった(と自分では思う)。一日は24時間しかなく、その多くの時間は仕事をしているので、仕事の中で英語を活用する環境を整えることが、英語力の強化には必要不可欠だと今でも思う。

 

正直仕事の面白さはあまり期待していなかったのだが、外部からコンサルタントとしてお客様にサービスを提供するのとは異なる、何というか一蓮托生の一体感というものを異動先の部署では覚え、グローバルな部署統合のような当初想像もしていなかったような仕事の機会にも恵まれ、とても楽しく過ごすことができた。また、会社という枠がなくなっても一生お付き合いができるような素晴らしい方達にも巡り会え、相変わらず大変なるも充実した日々を過ごすことになる。

 

この部署で米国へのアサインメントのチャンスがあったのだが、タイミングが少し悪く手元からするっと落ちていってしまった。話しが立ち消えてしまった時はショックだったが、機会の窓というのは開いたり閉じたりするものだから、焦らず、きちんと目標を見据えて諸事にあたるように心がけた。

 

勤めていた会社は世界に名だたるエクセレントカンパニーで非常に素晴らしい会社と今でも思うが、私にとってはそこで全てのキャリアをおえたいと思えるような会社ではなく、どこかで卒業をするんだろうなぁ、という直観を常に持って働いていた。問題はそのタイミングがいつかで、私にとっては「海外にいく前に卒業するのか」、「海外に行ってから卒業するのか」というのが難しい問題であった。
残念ながらいきなり米国の現地企業にいって就職できるほどの素養は私にはなく、米国に行く以上どこかを経由しなければならない。その経由地において、自分の希望を通すために、実績や信頼という「貯金」が必要であり、転職をするということはその「貯金」が一旦ゼロに戻ってしまうということに等しい。なので、「貯金」がそれなりに貯まった場所で機会の扉が開くのを待つのか、見切って新しい場所でゼロから「貯金」を貯め始めるのか、この点で大いに悩むこととなる。

 

もちろん、米国に行くことだけが唯一の目的ではないので、その他色々考え、最終的には事業の魅力という一点で今の会社に転職することを決意する。外資系の買収合併の波にもまれ、新卒で入社して以来、会社名は5回程変わってはいたが、初めて自分の意志で勤め先を変えることとなった。

 

新天地 ‐ カオスとその醍醐味

転職した会社は日本法人60名ほどの米国ノースカロライナ州に本社をおく外資系企業。転職前の会社は日本法人のみで2万人以上いたことを考えると全く別世界。「カオスを楽しめないとうちの会社ではやっていけないよ」とシンガポールにいる上司から言われていたが、入社してみたらやっぱり想像通りのカオスで腕がなった。時として、想像を上回るカオスに面くらうこともあったが、規模の小さな会社で活躍することの醍醐味にはまり、楽しみながら仕事漬けの生活を送ることになる。

 

2万人もいるような会社に勤めていると、自分の努力が会社全体に及ぼす影響というのは非常に見えにくいし、戦略の間違いというのも即命取りにはならない。一方で、規模の小さな会社は自分がさぼれがそれが全体への影響として覿面にあらわれるし、戦略の実現に向けて一丸となって取り組んで成果に結びつけないと、本当に命取りになる。自分が頑張れば会社全体が上向くし、頑張らなければ沈滞していくというのは、大変ではある一方、大いにやりがいがあるものだ。

 

入社当初は本当にカオスで、「同じ案件情報を4ヶ所に入力しないといけなくて大変です」とか言いながら若手営業が毎日深夜2時くらいまで働いたりしていて、なんか応急の止血をしないと兵士が討ち死にしてしまうというような状況がそこかしこに見えたり、請求書も発行していないのにお客様に支払いをメールでお願いし、入金されないと出荷できないみたいなローカルルールがある部署があって、ビジネスがぽろぽろこぼれていってる状況が散見されたり、野戦医のような気分で応急処置にあたった。

 

まぁ、生来ぱっと見てとっつきやすい人間ではないようで、初めは「あいつ何者?」って感じで遠巻きに警戒されていた。が、諸事に敬意をもって対応していたら、気づいたら同じ方向を目指す同じ船の同乗者として認めて頂き、職場の方とも良好の関係が自然とできていった。外部から専門家としてお客様に価値を提供するコンサルタントという仕事は今でも素晴らしい職業と思うが、スコープとか期間とか気にせず、会社のためには何を一番すべきかという視点で仲間と仕事ができる事業会社での仕事も大変魅力的で、その醍醐味を大いに堪能することとなる。転職して初めの2〜3年はそんな感じでひたすら新しい会社の仕事に没頭した。

 

プライベートのほうは、転職して間もなく長男を授かり、家族4人での生活がスタートした。「男性の育児への参加」という第3者みたいな視点ではなく、「職業は父親、別の姿として会社員」という心意気で子育てにあたったつもりであったが、まぁ、仕事が忙しいこともあり、自分が思い描くような形でどれだけできたかはわからない。家族からは何とか合格点はもらえることを期待したい。

 

そして転籍 - 米国へ、家族とともに

転職して2年半くらいたったころだろうか。本社からCFOが来日し、One on Oneで話す機会を頂けたので、自分の米国本社への転籍を志願した。赴任プログラムがあるような会社でもなく、もちろん日本法人から本社に人が転籍したなんてケースもない会社なので、一筋縄ではいかないだろうなぁ、と思っていたが、自分が希望をもっていることを表明し、その希望の実現に向けてサポートを依頼しないことには何も始まらない。丁度私の所属する部署のグローバルのトップが退職をし、その席が空白のタイミングであったため、いきなりオッケーとはもちろんならず、「希望を持っていることは認識した、でも今の部署のどたばたが落ち着いてからもう一度考えよう」というような答えをもらうことになる。まぁ、第一ラウンドとしてはこんなものかと。ゴールに向けて地道に努力をしていくと、機会の扉は自ずと開く、というのは経験則としてあったので、あまり焦らず、扉がゆっくり開いていくのを待ちながら、その期が到来する時に色々サポートがもらえるように目の前の仕事を着実にこなすことに腐心した。

 

ほどなくして空白だったポジションに新しいリーダーが着任し、その人ともOne on Oneで話す機会を得る。仕事の話が一通り終わった後に、米国本社への転籍の希望をストレートに伝えると、しばらく考え「是非サポートしたい、だが自分も新しいポジションについたばかりで、目の前にある山積みの問題を解決しないといけない、だから必ずサポートするが落ち着くまでもう少し時間が欲しいし、一緒に今の問題解決に取り組んで欲しい」というような答えをもらう。まぁ、それはそうだ。入社当初は日本では私一人だった部署も、会社の拡張や役割の見直しなどを受け、10名以上のチームを任せられるようになっており、私の受け持つ範囲はかなり広がっていた。着任したばかりの人にしてみれば、それなりに規模があって落ち着いて回っているところをいきなり動かしたくはないだろう。ただ、サポートをしてくれることを約束してくれたので、一緒に目の前の問題解決にあたり、機会の扉が少しづつ開いていくのを待つこととした。

 

その後も、竜巻のように吹き荒れる色々な仕事上の問題に取り組み、嵐のように過ぎ去る日常の中でも子どもも健やかに成長し、地域社会への関わりみたいなことも徐々にして増やしたりして、充実した日々が過ぎていった。転職して、そろそろ5年目に近づこうかという頃、シンガポール人の上司と話をしていると、「本社への転籍について具体的な日付とプランをそろそろ決めたい、だからまず移行プランの素案を作って欲しい」という打診を受ける。鍵はかかってないんだけど、ちょこっとしか開いていない機会の扉が、「ぎぎぎぎっ」みたいな鈍い音をたてて自然と少しだけ開き、自分の手をそこに差し入れる余地がようやくできる、そんな感触を覚えた。

 

扉が開きかけたら、後はそこに向けて力を集中するのみ。ターゲットとする移行日をがちっと決めて、そこから逆算した詳細な移行プランを作ったり、引き継ぎのための体制作りをしたり、米国本社への出張の際に家族を連れていって現地を視察してもらったり、日常の仕事はもちろん疎かにはしないが、それ以外の力をほとんど転籍の実現に注いだ。2013年の11月をターゲットとして、2013年の1月から具体的に色々動き出した。5年も勤めたポジションだったので引き継ぎの体制作りに大いに苦労することとなったが、最終的には自分の居場所のない(笑)体制を作ることができた。

 

なお、ここで日本語で書いても詮ないことであるが、シンガポールにいる直属の上司はこの転籍に向けて、文字通り一番手を動かして助けてくれた。前例のないことは、口を動かす人は一杯いるのだが、前に進めるために苦労しながら手を動かしてくれる人は少ない。私がいなくなって困るのは自分にも関わらず、私の希望をくみ、成長性に期待をかけ、実現に向けて腐心してくれた上司には感謝しても感謝しきれない。そういう上司に恵まれたことは心の底から幸運と思う。

 

ビジョンとチャレンジ、その結果えたこと

つらつらと駄文を書き連ねたが、

カリフォルニア州サンノゼ近辺で悠々自適に暮らし、50歳までには毎日仕事をしないといけない状態から足をあらう

というビジョンに向け、色々チャレンジを重ねてきたが、アメリカに居を移すという一歩を踏み出すことができ、大きな前進を遂げることができた。30歳の頭から数えて、この一歩を進めるのに8年も時間がかかってしまったし、場所も西海岸ではなく、東海岸で全然違うし、ここがもちろんゴールでもない。30代頭では見えなかったことが、今は見えることもあるので、ビジョンも見直さないといけないだろう。

 

ただ、今すぐにビジョンを見直すという気には、何か今はなれなく、再設定した中長期のゴールに向けて走り出すまでに半年くらいは少なくともかけてもいいかなぁ、と思っている。住む国が変わるというのはそれ自体が大きな変化なので、その変化に少し身を委ねて、この国でしばらく生活、仕事をして、もう少し色々なことが見えるまで時間をかけようと。

 

私は、難しい仕事を仲間と一緒に一生懸命取り組んで、大変な思いをしながらもやりきることが大好きだ。今の会社、前職も含めて、チャレンジをともにしてくださる方々、そしてそういう仕事の機会に多く恵まれ、本当に幸せだと思う。その経験、そしてその過程で出会った人々、築いた人脈というのは自分にとっての本当にかけがえのない財産だ。

 

また、仕事以外では、子育てをしながら幸せな家庭を築くという、これまたものすごく難しいチャレンジを妻と取り組んでいることに強い充実感を覚える。世界で最も難しいであろうこの取り組みに一緒にチャレンジする最高のパートナーが自分にはいて、これまた大変幸せなことだと思う。居をうつすにあたり、妻には大変な苦労をかけたが、あらためてその諸処の課題を解決していく能力と物事をやり抜く馬力を目の当たりにし心強く思う。本当にありがとう。

 

そして、今家族で異国に居を移し、子供たちも仲間に加えて、新しい環境に適応しみんなで楽しく過ごすという一大プロジェクトに取り組み始めた。私や妻だけでなく子供たちもプロジェクトメンバーとして大いに四苦八苦している。お父さんがプロジェクトマネージャーで「よし、成功に向けてみんなで頑張ろうぜ」みたいな感じで、家族という最もつながりの強い仲間とチャレンジできる今の状況を私はとても気に入っている。

 

天職という言葉に30代の頭はとらわれたが、今は気にならない。私は仲間と難しいチャレンジに取り組み、苦労をわかちあいながらも、成し遂げる、その過程と達成した時に覚える充実感が大好きなんだ。それがわかったのだから、何を天職などというものにこだわろうか、それが今の正直な気持ちだ。

 

長文に最後までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。




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