2016年の大統領選挙でトランプが勝利した際に『ヒルビリー・エレジー』という本が話題になった。本書の序文は下記のような内容から始まる。
私は上院議員でもなければ、州知事でも、政府機関の元長官でもない。
私は何か特別なことを成し遂げたから本書を書いたわけではない。むしろ、私と同じような境遇に育った多くの人たちには実現できない、ごくふつうの生活を送っているから本書を記したのである。
『ヒルビリー・エレジー』
ごく控えめな序文から始まる本書は、典型的なラストベルトで生まれた筆者の生い立ちを綴った回想録だ。筆者は、生まれた街を、「仕事も希望も失われ、薬物で命を落とす人が後を絶たない地方都市」と称している。生物学上の父親はいなくなり、母親は薬物依存症。彼を育てた祖父母も高校卒業をしていない。そんな厳しい家庭環境とラストベルトの現実を描いたこの本は、「トランプにはどんな人が投票したのか?」という問いに答えるものとしても話題を呼んだ。。ご存知の方も多いと思うが、その『ヒルビリー・エレジー』の筆者が次期アメリカ副大統領J・D・ヴァンスだ。
政治的な背景の理解、という小難しいことをおいておいても本書は読み物としてかなり面白い。次期副大統領の自叙伝としてはかなりぶっ飛んでいる。
3章から6章までのタイトルは、「追いかけてくる貧困、壊れはじめた家族」、「スラム化する郊外」、「家族の中のはてしのない諍い」、「次々と変わる父親たち」と絶望的だ。
劣悪な家庭環境の影響も大きく、高校を落第寸前になるヴァンス。高校中退の瀬戸際に立たされた彼にある事件がおこる。
母は私に「クリーンな尿をくれないか」と言うのだ。前の晩から祖母のところに泊まっていた私が、学校へ行く準備をしていると、取り乱した母が行きを切らして部屋に入ってきた。看護師免許を更新するためには、看護協会が実施する無作為抽出の尿検査に応じなければならない。その日のうちに尿を提出するようにと、朝、電話がかかってきたという。
『ヒルビリー・エレジー』
年頃も年頃である高校生にはこれはきつい。いや、つらすぎる。薬物はやめると自分に約束した母親が、約束を破って薬物をやっていただけでなく、「お前さんのきれいなおしっこをおくれ」と頼むのだ。これでグレないやつはいるのか。当然、ブチギレて「クリーンな小便が欲しいんなら。つまらないことはやめて、自分の膀胱からとれ」と吐き捨てるヴァンス。
ところが、この話はそれで終わらない。その場にいた祖母が怒れるヴァンス青年をいさめたところ、、、
私は祖母をバスルームに引っ張り込んで、耳もとで打ち明けた。ここ何週間かで二度、ケンのマリファナを吸った。「だからだめなんだよ。おれの小便を持ってったら、ふたりともやっかいなことになるんだ」
『ヒルビリー・エレジー』
まさか、ここでまさかの衝撃のカミングアウトをするヴァンス青年。「おい、お前もかーい」と、読んでいて思わずのけぞってしまった。
が、「マリファナ2回くらいで検査でひっかかりゃぁしないよ、どうせちゃんとした吸い方も知らないんだろう」と老練な祖母の助言を受けるヴァンス青年。おばあちゃんも誠に経験豊富である。
そして、この事件を機に、母親から離れて祖母と暮らすようになるヴァンス青年。その祖母との生活で何とか生活と成績を立て直す。そして、どん底の環境から抜け出すべく海兵隊に入り、まともな人生の歩み方のイロハを学び、オハイオ州立大学、そしてイェール大学ロースクールを卒業するというサクセスストーリーを歩んでいく。その逆転劇は読んでいて痛快だ。が、その過程で、自分の育った環境がゆえに、壁にぶつかり、葛藤し、苦悶の中で一歩ずつ進み続けたヴァンス青年の姿にも、私は心を打たれた。
執筆当初は、上院議員でも、会社の創業者でも、NPOを立ち上げたわけでもなかったヴァンスは、その後VCの社長になり、オハイオの薬物対策を担うNPOを立ち上げ、そして上院議員になる。そして、来年の1月からはアメリカの副大統領だ。
私は、価値観の多元性を重んじる方だし、ラストベルトを救うのは減税や規制緩和よりも福祉や適切な医療規制だと思ってる(要は民主党推し)。だが、私は所詮この国では傍観者であり、野次馬にすぎない。ラストベルトから真のアメリカンドリームを実現したヴァンス。彼が真の当事者としてどのような政策を実行に移していくかについては興味がある。問題発言も色々あったようだが、今後の健闘を見守りたい。