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リベラリズム、デモクラシー、国家機構(フランシス・フクヤマ『政治の起源』『政治の衰退』メモ)

 今回紹介するのは、フランシス・フクヤマの著書、『政治の起源』と『政治の衰退』である。フランシス・フクヤマというと、「」でその名前を知っている人がほとんどだと思うが、「冷戦終了間際にリベラル・デモクラシーは完全勝利したとかのたまっていた傲慢で能天気なネオコン」みたいな認識で済ませておくのはもったいない人物だ*1。『政治の起源』『政治の衰退』は、様々な時代や地域の政治制度を取り上げながら、政治制度の発展と衰退のパターンを描くビッグ・ヒストリー本である。全体的な議論に同意するかはともかくとしても、鋭い洞察に溢れた非常に面白い本であることは間違いない。どちらも上下巻ある大部の本なので、本エントリでは全体を要約することはせず、筆者の関心にマッチし、読んでいて特に面白く感じた箇所を取り上げることにする。

フランシス・フクヤマ『政治の起源』上・下

フランシス・フクヤマ『政治の衰退』上・下

 

国家機構の重要性

 フクヤマを数多いるリベラル・デモクラシーの擁護者の中でも特別な存在にしているのは、国家機構の重要性を強く強調している点だ。フクヤマは、近代リベラル・デモクラシー国家を構成する3つの基本制度として、国家、法の支配、説明責任を挙げている(『起源』上pp. 42-43)。国家というのは、官僚機構を備えた中央集権的な政治権威を指す。要するに、私たちが普通「国家」と言われて思い浮かべるような、近代的な国家機構のことだ。この国家という強大なリヴァイアサンに対して、法の支配と説明責任が制約をかける。法の支配は、ルールによって統治者の権力行使を縛ることを指し、リベラリズムに対応する。説明責任というのは、統治者の権力行使を民意の下に置くことを指し、デモクラシーに対応する*2。政府の3部門で言えば、、国家機構が行政府、法の支配が司法府、説明責任が立法府に大まかに対応する。

 フクヤマは、この3要素の中で、国家機構の重要性は相対的に軽視されがちな傾向にあると指摘している(『衰退』上pp. 69-70)。リベラル・デモクラシーはまずもって権威主義専制と対置される統治形態であり、強力な国家から個人の自由を保護すること、統治者に国民への説明責任を果たさせることは、現代政治の中心課題となっている。だが、そもそも政府が強力な統治能力を持ち、きちんとした政策を実行することができなければ、話は始まらない。私たちは、基本的な公共サービスを提供できる有能な国家を当たり前のものと見なしがちだが、歴史的に見ればそれはかなり異常な存在である。

 フクヤマによれば、現代のリベラル・デモクラシー国家が危機に晒されていると言われる理由の1つは、国家機構が人々の望む結果(経済成長や安全、公共財)を提供できていないこと、つまり成果を出せていないことにある(『衰退』上p. 344)。国家権力に制限をかけることの必要性は盛んに語られている一方、効果的な統治について論じられることは少ない。しかし、政府が成果を出せないと、人々は物事を進めてくれる強力な指導者を求め始める。その典型例がインドとアメリだ。法の支配と説明責任によって国家を縛ることは重要である。だが、そもそも国家機構が弱く無能だったり、縛られ過ぎて身動きをとれなくなったりすると、停滞した政治を打ち破ってくれそうな人物(モディ、トランプ)に支持が集まり、これはリベラリズムやデモクラシーそれ自体をも脅かす*3

 もちろん、国家機構が強力でも、法の支配や説明責任がなければ、権威主義的で個人の自由を脅かすような国家が生まれてしまう。その典型例としてフクヤマが挙げるのは現代の中国だ。中国は、ヨーロッパを1000年先取りしているとフクヤマが言うほど(『起源』上p. 160)、早くから国家機構が発達していた(これは『起源』の第6章から第9章で詳述されている)。近代になって発展したアジア諸国はいずれも、「質の高い権威主義」という遺産を中国から受け継いでいる。一方で、法の支配と説明責任の伝統は非常に弱く、国家機構を制約する力は乏しい。法の支配と説明責任が不在の状況で、優れた統治がどこまで維持できるかは定かでない。トップに無能な人間や邪悪な人間がついたらどうするかという「悪い皇帝」問題 (bad emperor problem)が存在するからだ(『起源』下p. 98-100)。

 要するに、法の支配と説明責任は、良い政府の行動を制約することもあるが、悪い政府の愚行を止めることもできる(『起源』下p. 100)。政治制度が適切に機能するために必要なのは、国家機構、法の支配(リベラリズム)、説明責任(デモクラシー)の3要素間の均衡なのだ。この結論はもちろん常識的なものだし、強い国家とそれを制約する装置の必要性については、他の場所でも盛んに論じられている*4フクヤマの著書の特色はやはり、法の支配や説明責任に並んで、国家機構の重要性を読者に対して強く説いている点だろう。

 

家産制を抑え込む

 フクヤマの議論で独特なのは、様々な政治制度の発展に、「家産制を封じ込める試み(とその挫折)の繰り返し」を見出している点だ。家産制(Patrimonialism)とは、権力の内部にいるエリートが特権を用いて親族や友人に便宜を図ろうとすることを指す。つまり権力者が国家を家産のように扱っている状態だ。親族や友人を優遇するというのは、明らかな進化的起源(血縁選択と互恵的利他主義)を持つ、人間の非常に基礎的な傾向だ。そのため、いくら封じ込めようとしても、家産制を復活させる圧力は常に働き続ける。これは、国家を、小規模で私的な繋がりが支配する部族社会へと引き戻そうとする脅威となる。フクヤマは、政治制度が停滞・劣化する主要な要因の1つとして家産制を挙げている(『起源』下p. 268)。

 フクヤマによれば、初期の国家はいずれも家産制国家であった。だが政治制度の発展に伴い、いくつかの国家は家産制の封じ込めを図り始めた。『起源』の上巻の大部分は、中国、インド、イスラム諸国家において、国家機構がどう成立したか、そして家産制を抑え込む試みがどう展開したかを描いている。郡県制による中央集権化、科挙、宦官、軍人奴隷(マムルーク)などが、家産制を封じ込めるための「イノベーションとして取り上げられている。だがこうした強権的な封じ込めの取り組みは、家産制を復活させようとする強い圧力の前に幾度も敗れることとなった。

 これと対照的なのがヨーロッパだ(『起源』上、第16章)。ヨーロッパでは、国家が家産制を封じ込めようとする以前に、親族を基盤にした社会関係が崩れており、個人主義が根付いていたフクヤマが引いているジャック・グッディの議論によれば、これは、カトリック教会が西ヨーロッパで特殊な婚姻・相続パターンを推し進めたからだという。カトリック教会は、恐らくは富を増やすために、交差いとこ婚、レビレート婚、養子縁組、離婚、内縁関係といった、財産を親族に集中させていくような婚姻・親族パターンを禁じていった。こうして、国家の強権的介入以前に、社会のレベルで親族関係の解体が起こった。多くの社会は、部族的な社会関係の上に国家制度が位置し、絶えず部族主義を制圧するという構図で捉えられるが、ヨーロッパは社会関係のレベルで部族主義が解体しているという点がユニークなのだ。

Jack Goody "The Development of the Family and Marriage in Europe"

 ところでジョセフ・ヘンリックは、カトリック教会による婚姻パターンの規制が(西洋)近代社会の諸特徴を生み出した、と論じている*5。時間的な順序としては逆だが*6、個人的にはここを読んでいて「フクヤマがめっちゃヘンリックな議論してる!」と興奮した。

ジョセフ・ヘンリック『WEIRD 「現代人」の奇妙な心理』

 また、『暴力と社会秩序』も、近代国家(アクセス開放型秩序)の成立において、属人的関係が非属人的関係に置き換わることの重要性を論じていた。

ダグラス・ノース、ジョン・ウォリス、バリー・ワインガスト『暴力と社会秩序』

 私たちは、(市場と対置されるところの)ヒエラルキー・中央集権的な制度として、政府や企業などを思い浮かべがちであり、家産制はそうしたヒエラルキー的組織を外から侵食するもの、と捉えがちだ。一方で、歴史の大部分を通じて、むしろ家族こそがヒエラルキー的制度の基本形態だった、とポール・シーブライトが以下の本で論じている(第13章)。この本も、ビッグ・ヒストリー本、ポップ社会科学本好きには非常にオススメである。

ポール・シーブライト『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』

 

自律的な官僚制

 フクヤマは2つの著書(特に『衰退』)で官僚制について大きく取り上げている。国家機構の強さは、官僚制がどれだけ有能で質が高く、腐敗が少ないかにかかっている

 官僚制の重要性は、いまいちど強調しておくに値する。多くの開発途上国の問題は、国家の力が強すぎることよりもむしろ、ある面で脆弱であり非効率なことに起因している(『衰退』上p. 52)。脆弱な国家は、反対勢力を抑圧する一方で、公共財を提供するといった基本的な国家機能を果たせない。政治家が選挙で民主的に選ばれたとしても、その政治家の公約を実行できるような行政機構が存在しないのだ。より一般に、選挙を行うだけでは、政府の適切な機能は必ずしも保証されない(『衰退』下p. 189, pp. 312-313)。デモクラシーが有権者の気まぐれさやデマゴーグの出現に脆弱であることは古来から指摘されているし、仮に有権者がきちんとしていたとしても、数年に一度の選挙では、有権者の意向を伝えるシグナルとして十分に機能しない。官僚制は、デモクラシーへの昔ながらの懸念に対する応答であるとともに、市民の意向(ある業界に課されている規制は非効率だとか、自分の子どもの学校に良い教師がいないだとか)に応える上で必要不可欠な存在なのだ。

 それでも多くの人が官僚制に懸念を持つのは、上の段落からも示唆されるように、官僚制がデモクラシー(説明責任)と明白な緊張関係を持つように思われるからだろう。そしてこれはもちろん、真正の懸念だ(『衰退』上p. 97)。大規模な組織は官僚制なしに運営できないが、官僚の自律性が大きく有能だと、選挙で選出された政治家の力は大きく削がれ、統制が効かなくなる(この現象を説明する際には、BBCのコメディ「イエス・ミニスター」が取り上げられがちだ)。とはいえ、単に官僚制に対する説明責任を強化するだけでは、解決にならないどころか事態を悪化させる可能性が高い。こうした試みは、官僚をルールでがんじがらめに縛って「お役所仕事」ぶりを悪化させたり(『衰退』下p. 298)、複数の両立しない命令を課すことでパフォーマンスを低下させたり(『衰退』上p. 217)、あまりにもルールが複雑なため官僚がどのルールをどう適用するか恣意的に決められしまう(『衰退』下p. 305)、といった状況を生み出してきた。

 結局のところ、官僚制が効果的に機能するには、一定の自律性・裁量を与える必要がある(『衰退』下p. 314)*7。官僚制は十分な能力を持っているため、与えられた目的をきちんと果たすようコントロールすればよい、と私たちは考えがちだが、実際には官僚制の能力と自律性は切り離せないのだ(『衰退』下p. 299)。官僚制に強い説明責任を課し民主的正統性を高めようとする試みは、政府の能力を低下させ、正統性それ自体を掘り崩し得る(『衰退』下p. 314)。

Yes Minister

 

 官僚制発展の歴史を見ても、国家機構(官僚制)とデモクラシーの発展の間には一定の緊張関係が存在する(『衰退』下p. 298)。今日、質が高く腐敗の少ない官僚制を保持している国は、権威主義体制期に安全保障を追求する中で、有能な官僚制を作り上げてきた歴史がある(『衰退』上p. 42)。古代中国、プロイセン、明治時代の日本などがその例だ。こうした国は、メリトクラシーに基づいた質が高く自律的な官僚機構を構築した後で、民主化していった。一方で、官僚制の建設より前にデモクラシーが導入された国(アメリカ、ギリシャ、イタリアなど)では、投票の見返りに官職をばらまくことで大衆動員がなされたため、腐敗や汚職、情実人事が蔓延ってしまった(『衰退』上p. 255)。つまり、デモクラシーが先に根付いた状態で高度な官僚制を築くのは非常に難しい仕事なのだ。こうした国々は、有能で自律的な官僚制を構築するための改革を行ってきたが、その実績はかんばしくない(アメリカは一応改革に成功したが、後で見るように、政治的衰退の道を辿っている)。

 こうした事実を受けて、例えばサミュエル・ハンティントンなどは、発展途上国も一度、権威主義体制を経て官僚機構をしっかり構築してからデモクラシーに移行すべきだ、と主張している。しかしフクヤマはこのような主張に同意していない(『衰退』上p. 267-268)。そもそも、今日の発展途上国の多くは権威主義体制を築いているが、プロイセンのような有能な官僚制を築けているわけではない。であれば、独裁や専制を許容するメリットはほとんどなく、アメリカのように、デモクラシー体制の中で官僚制を構築していくしかないだろう。

サミュエル・ハンチントン『変革期社会の政治秩序』*8

 

 そして、官僚制の自律性が重要だと言っても、自律的すぎる官僚制もまた問題を引き起こすという懸念は重要であり続けている。ドイツや日本は確かに有能な官僚制を築いたが、権威主義体制の下であまりにも高い自律性を持ったせいで、国家を戦争へと導き破滅へと追いやってしまった(『衰退』第4章、第23章)。また、腐敗(パトロネージュ、クライアンテリズム)の蔓延る開発途上国では、官僚制の裁量を縮小する政策をとることが必要な場合もある(『衰退』下p. 310)*9。重要なのは国家機構とデモクラシー(説明責任)の間でバランスをとることだ。もちろん、最適なバランスがどこにあるかという問題は未だに決着がついておらず、恐らくは理論的に定まるものでもないが(『衰退』下p. 346)。

 

 以下の記事は、フクヤマの講演「ディープステートを擁護する(In Defense of the Deep State)」の翻訳である*10。自律的な官僚機構は、現代の(特にアメリカの)政治環境において攻撃に晒されているが、近代国家において不可欠であり、また官僚機構をコントロールするための手段も存在する以上、自律性と統制のバランスを追求するしかない、ということが説かれている。非常にオススメの記事だ。

ドナルド・モイニハン「フランシス・フクヤマのディープ・ステート論:なぜ自律的な官僚機構は近代国家に不可欠なのか」(2023年9月25日) - 経済学101

econ101.jp

 

アメリカの政治的衰退

 『衰退』の第9章から第11章、および第31章から第34章は、アメリカ政治の発展と衰退を扱っている。第9章から第11章では、ジャクソンの改革によって猟官制(政治任用制)とクライアンテリズム(利益誘導政治)が定着し、汚職とばらまきが蔓延っていたアメリカで、ペンドルトン法による資格任用制の導入、セオドア・ルーズベルトによる大統領権限の強化、農務省の伝説的な官僚ギフォード・ピンショーの活躍などによって、アメリカが徐々に近代的な官僚制を構築していく様子が描かれている*11。だが、第31章から第34章では、アメリカの官僚機構が力を奪われ、同時にアメリカ政治が衰退の一途を辿っているさまが描き出されている*12

 先にも述べたように、アメリカは行政府改革を断行し、時間はかかりながらも近代的な官僚制を構築した。だが行政府不信は根強く残り、やがて、司法府(裁判所)と立法府(議会)が行政府の機能を奪い取っていった(『衰退』下pp. 246-250)。アメリカは、ジャクソン大統領時代の「裁判所と政党の国(a state of courts and parties)」*13に戻ってしまったとフクヤマは言う。つまり、国家機構に比べ、法の支配と説明責任という制約が強くなりすぎて、均衡が崩れているのだ。これはたくさんの病理を生み出している

 司法府に関して言うと、通常の先進国であれば、権限を委ねられた行政府が規則を制定したり、法を執行したり、ステークホルダー間で協議したりして解決できた問題も、アメリカでは訴訟の場で争われることになる。こうして、裁判官が不透明なプロセスで政策を断片的に進めていく形となり、法の執行に著しい不統一が生まれている。これは、不確実性や煩雑さを生み、意思決定を遅らせ、市民に高いコストを課す(『衰退』下pp. 254-255)。

 また立法府に関して言うと、そもそもアメリカの立法過程は非常に複雑で統一性に欠けており、どの機関にどのような権限が与えられているのか不明瞭で、複数の機関に重複した権限が割り当てられているため、相互に妨害しあったり、矛盾した法律が生み出されてしまったりする(『衰退』下pp. 261-262, 274, 283)。そこにつけこんでロビー団体が私益を追求したり、官僚が権限を濫用したりといったことが生じてしまう。こうして物事がうまくいかなくなると、司法の介入によって問題を正してもらおうとするという悪循環が生じる(『衰退』下p. 287)。アメリカ政府は、説明責任の制約が強く課されているにもかかわらず、結果的に説明責任を欠いた統治がなされているという皮肉な事態に陥っているのだ(『衰退』下p. 255, 283)。

ジョセフ・ヒース「アメリカの憲政の危機:なぜアメリカは袋小路にはまっているのか」(2025年2月16日) - 経済学101

econ101.jp

 

 つまり、アメリカは抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が過剰なために政府が機能不全となっている。より専門的な言葉で言い換えれば、アメリカの政治制度には、政策の策定や遂行にストップをかけられる拒否権プレイヤー(veto prayer)が多すぎて、政府が身動きをとれなくなってしまっている(『衰退』下pp. 278-279)。フクヤマはこの状況を拒否権政治(vetocracy)と呼んでいる。拒否権政治を引き起こしている主要な要因の1つは、大統領制だ(『衰退』下pp. 287-288)。

 議院内閣制の場合、議会多数派が内閣に対してかなり強い権限を委譲するため、政治が膠着状態に陥りづらい。さらに政党規律があるため議員個人に行使できる拒否権は限られており、ロビー活動の標的にされにくい。また、法案策定においても行政府の官僚の専門知識が活用され、長期的視点を持った一貫性のある立法が行える(『衰退』下pp. 280-283)。このように、議院内閣制は権力の集中を特徴としている。だがその一方で、説明責任をきちんと果たせる体制にもなっている立法府の官僚が新しいルールを敷けば、内容は議会で検分され、政治的動きによって変更される場合もある(『衰退』下p. 255)。政権の政策が気に入らなければ、選挙によって政権を追い出すこともできる(『衰退』下p. 282)。

 アメリカの大統領制は、議院内閣制に比べて多くの面で劣っている、とフクヤマは主張している(『衰退』下p. 289)。大統領制においては、大統領と議会が競合し、膠着状態に陥りやすい(これは中南米諸国によく見られる。『衰退』下p. 282)。党幹部は法案や予算に関して絶大な権限を持つため、ロビー活動の標的となりやすい(『衰退』下p. 281-282)。そして既に述べたように、議会内で権限重複が多く、一貫性のある立法が行えていない。結果としてアメリカ政府は、表面的にはデモクラシーを重視する体制のように見えながら、結果的に説明責任を果たせない状態になってしまっている。

ホアン・リンス、アルトゥーロ・バレンズエラ編『大統領制民主主義の失敗』

  • 南窓社

 

 では、この機能不全状態から抜け出すための出口はあるのだろうか。フクヤマはこの点で悲観的だ。アメリカにおける政治改革が非常に困難だと考えているからである。

 第一に、政治的なインセンティブの問題がある。政党が自らの金蔓を断ち切ったり、利権団体が自らの影響力を縮めたりするような改革を望むとは考えがたい(『衰退』下pp. 292-293)。現状を改革するには、既存の制度に利害を持たない集団を政治的に組織する必要があるが、そんなことは一朝一夕でできるものではない。

 第二に、思想的な硬直性の問題がある(『衰退』下p. 271, p. 293)。フクヤマによれば、人々は政府が上手く機能していないという事態に直面した際に、司法に介入してもらうか、民主的な市民参加を拡大するか、といった選択肢しか思いつかないのだ(こうした改革は結局、説明責任を果たす政府を生み出すという目的を果たせなかったにもかかわらず)。司法介入や市民参加を減らすことこそが解決策であるという可能性を口にする者などいないアメリカの問題の多くは議院内閣制へと移行すれば解決するだろうが、アメリカ人は憲法聖典のように扱っているため、そんなラディカルな変革は想像もできない(『衰退』p. 294)。

 第三に、簡単な改革をいくつか実行するのではとうてい解決できないほど、事態がこじれてしまっているという問題がある。例えば、政党規律を高めても、かえって政党間の妥協が難しくなるかもしれないし、司法による行政の肩代わり状態を終わらせるとしても、強力な官僚機構がないなら事態は悪化するかもしれない(『衰退』pp. 293-294)。現実的には、拒否権を弱めながら議院内閣制の仕組みを取り入れ、分権的制度の内部に強いヒエラルキー的権力を育んでいくしかないだろう、とフクヤマは述べている(『衰退』下p. 294)。

 

 なお以下の記事は、フクヤマと同様の視点からアメリカの政治的衰退について論じている。

ジョセフ・ヒース『トランプ大統領省察』(2016年11月10日) - 経済学101

econ101.jp

【翻訳】 スティーブン・テレス 「アメリカ政治に巣食う『クラジオクラシー』」 - 未厨伯(みくりや はく)

note.com

 

リベラル・デモクラシーのこれから

 既に述べたように、フクヤマは、国家機構、法の支配(リベラリズム)、説明責任(デモクラシー)の3要素の間には緊張関係がありつつも、政治秩序が適切に機能するには、3要素が均衡を保たねばならない、と本書で繰り返し主張している。これは、リベラル・デモクラシーは権威主義体制よりも(何らかの意味で)優れているという主張を暗に含意している。

 だがこのような主張は手放しで受け入れられるものではない。21世紀に入って、リベラル・デモクラシーの普遍性や存続可能性に疑問符を突き付ける、2つの大きな現象が生じているからだ。

 1つは、オルタナティブな統治制度が勢いを増していることである。イスラム神権政治やロシアの権威主義など、それほど堅固とは言えず、真似したいと思う国もほとんどないような統治体制は別にしても、中国は明らかにリベラル・デモクラシーのオルタナティブを提示していると言える(『衰退』下pp. 340-341)。そもそも中国は、フクヤマが本書で幾度も強調しているように、強い国家機構という伝統がヨーロッパよりもはるか以前から存在しており、伝統的に法の支配や説明責任が弱い。国内の中産階級の成長していく中で、中国が現行の体制を維持できるか否かは、リベラル・デモクラシーの普遍性をはかる重要な試金石だとフクヤマは述べている(『衰退』下pp. 341-342)。

 もう1つは、既存のリベラル・デモクラシー国家における制度的衰退だ。アメリカを含む多くの国が、市民の求めるような結果を出せていないという事実がある(『衰退』下p. 344)。リベラル・デモクラシーは歴史の一時期に成功した政治制度に過ぎないのかもしれず、今後も正統性を維持できるかは業績次第である(『起源』下p. 304)。

 それでも、リベラル・デモクラシーは普遍的であり、最終的には権威主義体制に勝利すると期待できる理由があるフクヤマは言う。

 第一に、現代社会の諸側面の発展を踏まえると、リベラル・デモクラシーは安定的な政治秩序に不可欠だと考える理由がある(『衰退』下pp. 337-338)。人口の流動性が高まり複雑化していく大規模な社会を、法の支配や説明責任なしに運営するのは非常に難しい。市場は予測可能で一貫したルールなしには成立困難だし、自由選挙なしに大衆の要求を知るには難しい。人はみな平等であるという思想もほとんど不可逆的に広まっている。経済、社会的動員、思想といった側面がこのように発展していることを考えれば、リベラル・デモクラシーは社会を安定的に組織するための条件と言えそうだ。

 第二に、リベラル・デモクラシーは適応能力や修正能力に優れているように思われる。権威主義体制は、有能な指導者がつく限りでは、問題に迅速に対応できる。だがこのシステムが良い結果を出せるかは、優秀な指導者を生み出せるか否かにかかっている。先にも述べたように、権威主義体制は「悪い皇帝」問題を未だ解決できていないのだ(『起源』下p. 306)。一方でリベラル・デモクラシー国家は、「悪い皇帝」問題に(比較的)悩まされておらず、制度の適応のための平和な道筋を示せる(『起源』下p. 306)。また、問題への対処は遅くなりがちだが、一度対応を開始すれば、広範な支持基盤に支えられているため、決定的な行動がとれる(『衰退』下pp. 343-344)。

 こうした議論は、上に挙げた2つの現象(オルタナティブな政治制度の盛り上がりとリベラル・デモクラシー国家の制度的衰退)がますます加速している現在から見ると、楽観的に響く(フクヤマもその楽観性に無自覚ではないし、本書を出した後も見解を微修正しているようだが)。本エントリでこうした主張の是非に立ち入るつもりはないが、いずれにせよ、現代の世界における最も差し迫った問題は、リベラル・デモクラシーとそのオルタナティブのどちらが生き残るかというより、多くの国がリベラル・デモクラシー国家になりたくてもなれないことだ(『衰退』下pp. 342-343)、というフクヤマの主張には、筆者としては同意したいところだ。

 

おわりに

 『政治の起源』と『政治の衰退』は、近代国家に関心のある人にはオススメできる本である。本エントリはかなり長くなってしまったが、それでも触れていないトピックはたくさんある(法の支配や説明責任の発展に関する部分はほぼ全く触れられなかった)。さらに、この2冊の著書の魅力は、制度発展に関する豊富な事例集を提供しているところに(も)ある。そういう事例集的な細部にこそ関心があるという人はぜひ本を手に取るべきだし、細部にはそんなに関心がないという人も、理論編っぽい章だけ読んでみるとよいと思う。

 最後に、本書と深い関係にある国家行使能力(state capacity)というテーマについて扱った記事をいくつか訳したことがあるので、貼っておこう。

 

ノエル・ジョンソン&マーク・コヤマ「近代国家と経済成長にはどんな関係があるのか:国家行使能力(State Capacity)に関する経済史研究のサーヴェイ」(2017年4月1日) - 経済学101

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ボー・ロススタイン「インタビュー前編:行政の質、市場経済における政府の役割、インフォーマルな制度」(2016年5月22日) - 経済学101

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タイラー・コーエン「リバタリアニズムはどうなってきたか、どうなっていくか:ステート・キャパシティ・リバタリアニズム」(2020年1月1日) - 経済学101

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ジョセフ・ヒース「アメリカの(ための)批判理論」(2024年5月21日) - 経済学101

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Francis Fukuyama "The Origins of Political Order"

Francis Fukuyama "Political Order and Political Decay"

 

*1:そもそも、「歴史の終わり」で一発当てただけの思想家、みたいな認識はだいぶ歪んでいて、例えばや官僚制に関する研究はたくさん引用されている

*2:厳密に言うと、本書における「説明責任」はデモクラシーに限定されない広い射程を持つ語だ(『起源』下pp. 104-106)。普通選挙は政府に説明責任を果たさせる仕組みの1つではあるが、それだけでなく、例えば地域利害を示す伝統的法典や、ごく少数の有力者からなる議会に向けられた説明責任も含まれている(そのため、デモクラシーではなく説明責任という語が使われている)。むしろ歴史的には、もともと少数の人々に向けられていた説明責任が、徐々に制度化され民主化されていき、デモクラシーの形をとるようになった、という方が正確だと思われる。

*3:なお『衰退』の原著が出版されたのは2014年なので、第1次トランプ政権以前の本である。

*4:アセモグル&ロビンソンなど。

*5:確認したところ、ヘンリックの本でもグッディが参考文献に挙がっていた。

*6:『WEIRD』の原著が出たのは2020年。

*7:フクヤマは、官僚制に対するポピュリスト的不信が非常に強いアメリカにおいてすら、世論調査を見れば、民主的統制の弱い組織に対する支持が最も高く、議会への支持が悲惨なほど低いと述べている(『衰退』p. 286-287)。フクヤマによればこれは、自律性の高い組織は仕事をきちんとやり遂げる一方、議会はロビイストに巣食われ党派的対立に蝕まれ何もできないと思われているからだ。

*8:フクヤマはハンティントンに師事しており、『起源』『衰退』もハンティントンの議論を意識して書かれている。

*9:ただしフクヤマは、役人が単に私腹を肥やすような汚職と、(不偏性が担保されないとはいえ)役人に一定の説明責任を課すことになるパトロネージュ・クライアンテリズムを区別しており、途上国はパトロネージュ・クライアンテリズムの段階にすら至っていないことが問題なのだ、と論じている(『衰退』第5章)。

*10:正確には一部省略されているが、ほぼ全訳といってよい。

*11:とはいえ政治任用の公務員の数は今も先進国の中では群を抜いて多い(『衰退』下p. 259)。そして第2次トランプ政権は政治任用枠の拡大を図っている

*12:こうした衰退の遠因として、フクヤマがハンティントンを引きながら強調しているのは、アメリカの政治制度が非常に古めかしいという点だ(『衰退』上pp. 170-172)。ハンティントンが述べるところによれば、アメリカの政治には、17世紀に北米に渡ったイギリス人たちが持ち込んだテューダー朝の政治慣習が根付いており、憲法にまで明記されている。司法の優位、地方自治、主権の多数の機関への分割などだ。イギリスはテューダー朝期以降、官僚制を発展させ、中央集権化を進め、議会主権となった一方、アメリカはテューダー朝期の制度にしがみついた。そして、イギリスには早くから強い政府機構の伝統があったが、アメリカはイギリスに対する反体制運動として誕生した国であることもあり、政府の力を縛ることに重点が置かれた。

*13:ティーヴン・スコロウネク(Stephen Skowronek)という政治学者の言葉。




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