今回紹介するのは、ベルナルド・ザッカ(Bernardo Zacka)という政治哲学者へのインタビュー。
Puff, Helmut and Zacka, Bernardo. 2022. "The architectures of waiting: Helmut Puff and Bernardo Zacka in conversation."
インタビューの大部分は、ザッカが現在取り組んでいる研究テーマに関するものだが、今回はインタビュー冒頭の、ザッカの最初の著書「国家がストリートと出会うとき:公共サービスと道徳的主体性」〔2017年刊行: 未邦訳〕について会話している部分を訳すことにする。非常に面白い本だと思うので翻訳が出てくれるととても嬉しい。
インタビューの残りの部分は気が向いたら訳そうと思うが、今のところその予定はない。なお野良訳であるということはお断りしておく。
Bernardo Zacka "When the State Meets the Street: Public Service and Moral Agency"
インタビュアー *1:ザッカさんは、著書『国家がストリートに出会うとき』で、現代アメリカの社会サービス行政において職員が経験する板挟み状態について検討してらっしゃいます。この本は、国家の顔となる人々、すなわち公務員(bureaucrats)*2の姿——その意思決定、主体性、波乱に富んだ日常――を活写しています。気になるのは、政治理論という分野が抽象性を志向する一方、ザッカさんの研究はフィールドワークに依拠していることです。貧困対策機関でボランティアとして働こうと思い立ったのはなぜなんでしょう?
ザッカ:インタビューにお招きいただきありがとうございます。そうですね、政治理論は大抵、抽象的な事柄を扱います。これは現象の本質を掴む上で非常に有益なこともありますが、個人的な考えを言うと、抽象化に対しては注意深い姿勢も持っておくべきです。抽象化が独り歩きして、目の前にある現実を直視する上での障害になってしまうことがあるからです。私の研究は、広く人類学的・現象学的な感覚(sensibility)にインスパイアされており、馴染み深い政治制度に対して、わざと素朴な形でアプローチするという手法をとっています。つまり、そうした政治制度を記述する際に用いられるような抽象的な語彙は一旦締め出して、それが実際にどう現れているのかを捉えようとしているのです。これは、福祉国家というテーマで言うと、国家とはまず何よりも、特定の人間、特定の場所(ある場所で出会う人物)なのだという考えを真剣に受け止めるということを意味します。
こういうアプローチをとっているのには個人的な背景があります。私はレバノン人なのですが、自分が成長する中で国家や政治権威がどう見えていたかを考えると、まず思い浮かぶのは検問所(checkpoint)なのです。車を運転していると突然、兵士か公務員が、すぐそこで車を覗き込んでいることに気づきます。その兵士(か公務員)がどんな権限を与えらているのかは分からないし、ちゃんとルールを守る人間なのかも分かりません。それは非常に不確実(contingent)な経験で、その不確実性の中に、何か重要で緊張感のあるものが存在するのです。
ですが、ずっと後になって政治理論を勉強し始めると、国家の顔となる人々、政治権威を具現する人々とのこうしたパーソナルな相互作用は、どこにも出てきませんでした。理論家は普通、「法は公正か」、「制度は正統か」といったことに関心を持ちます。そのため、私たちと国家との日常的な相互作用はすっぽり視界から抜け落ちているように思われたのです。
『国家がストリートと出会うとき』の考え方は、シンプルな考えから始まりました。「"国家とは特定の人間、特定の場所である"という観察から出発して、そのようなものとして国家にアプローチしたらどうなるだろうか?」。これは、見慣れたものが突然ひどく奇妙に見えてくるような、問題提起的な〔事象の〕再記述の一例です。〔このアプローチをとれば〕第一線公務員の行動が、細部まで法律によって規定されているわけではないということにすぐ気がつきます。もちろん、法の枠組みや公共政策は存在します。しかし、それでも不確定で不完全な部分は残っており、裁量の余地が大きいのです。すると、問題はこうなります。「公務員はどのように裁量を行使しているのだろうか?」。この問題について考えるためには、公務員が仕事をする上でどんな性向(disposition)を持っているのか、その性向は公務員が仕事で直面するプレッシャーによってどう形作られるのか、といったことも考えなければなりません。こうして、行政国家に関する様々な問題が出てくることになります。こうした問題は、政治理論の最前線ではありませんが、政治理論家に論じられることがたくさんある問題であると私は考えています。
インタビュアー:とても興味深いお話です。私は西ドイツで育ちました。東ドイツ、あるいは鉄のカーテンの向こう側〔東側陣営〕の国に行くには、国境の検問所を通る必要がありました。ですがそれは定型的なもので、警備員は旅行者とやりとりしないよう指示されていました。例えばジョークを言うことはできず、そんなことをすればひどい扱いを受けることになったでしょう。
ザッカ:その話は面白いですね。この研究を始める際、私はレバノンについてばかり議論しようとしていたのですが、アメリカ人の政治学者から返ってくる反応はこんなものでした。「確かに第一線公務員とのやりとりには不確実性がありますが、それは〔レバノンに〕法の支配がないからじゃないですかね」。レバノンに法の支配はないと言うのが正確なのかについてはハッキリ言えませんが、とにかくレバノンについて本を書く気はなくなりました。私が最終的に、アメリカのような先進民主主義国(法の支配が守られているとされ、裁量の行使に対する抑制装置が存在し、巨大な官僚機構を持つ、などなど)へと研究対象を移したのはこのためです。アメリカのような〔私の議論にとって〕より都合の悪いケースにおいてすら、国家と社会のインターフェイスにはかなりの不確実性が存在し、価値判断を伴うような裁量の余地がたくさんある、ということを示したかったのです。言い換えれば、これは官僚機構の作動の通常の特徴である、と示したかったのです。とはいえ、裁量が強く制限されており、定型的なやりとりに終始するような場面があるということを否定するつもりはありません。
インタビュアー:ザッカさんは政治学者で、道徳的な不確実性、緊張、矛盾に注目しています。私は文化史の研究者なので、強い親近感を抱きます。ザッカさんの研究の方法について何か教えていただけますか?
ザッカ:政治理論家であれば、第一線公務員というテーマを扱う1つのやり方は、こんな風に聞いてみることです。「第一線公務員は何をすべきなのでしょう?」。そうすれば、第一線公務員が考慮に入れるべき事項に沿った形で、道徳的枠組みを記述できます。政治理論家の理論家としての役割は、そうした行為主体の行動の指針となる原理を明示化することでしょう。戯画的に描くと、理論家は最終的に、第一線公務員が気にかけざるを得ない様々な規範的要求を天秤にかける方程式を手に入れることになります。
私の仕事はこれとは異なります。私が関心を持っているのは、様々なプレッシャーが課される厳しい状況において道徳的主体であるとはどういうことか、道徳的主体であるためには何が必要なのか、です。第一線公務員は、人員が足りない環境で、精神が参ってしまうような厄介なクライアントに対応しなければなりません。私がフィールドワークを行った福祉行政では、事態は非常に深刻です。私の行動次第で、クライアントは文字通り路上で暮らすことになり得るのです。福祉系の第一線公務員はそういう環境に置かれています。相手に敬意をもって接し、公正であり、仕事を素早くこなし、人々の置かれた状況によく気がつく(responsive)ことが期待されています。これら全てを同時に達成することなど可能でしょうか? クライアントの状況をきちんと見定めようとすれば、時間がかかります。待たされている人たちについてはどうすればいいでしょうか。自分の属している機関に課されている目標(それを達成できなければ資金や契約が打ち切られてしまう)についてはどうすればいいでしょうか。
私にとって一番重要な問いは、「こうした労働環境で、緊張や矛盾に満ちた道徳的地平(landscape)への感受性を失わないようにするには、何が求められるのか」というものでした。心理学の議論では、人々は構造的に失敗せざるを得ないような状況に置かれると、道徳的地平を単純化したり、1つの道徳的要求だけに焦点を当てたりして対処することが多い、とされています。このように自分の視野を狭めてしまおうとする誘惑に抵抗するには、どうすればよいでしょうか。
(この後、議論はザッカが現在取り組んでいるプロジェクトへと移っていく)