本所深川の忌部久光の名は陰陽師を探せば耳に入る名前の一つだった。
光久は下総の出で忌部氏の末流という。
忌部は太古において祭祀に関わる一切を受けもつ一族でアメノフトタマノミコトを祖神とすると伝えられる。
千葉に淵源があるという一族だ。
だが光久は元は忌部でなく「飯辺」という家の出であった。これを「淵源は忌部である」と解釈して、ただ我はその一族の末だと名乗っているのであった。
真偽のほどは分からないが当時はその程度の素性のものは色々な分野にいくらでもいた。
光久を訪れる人もそんなことは「キャッチフレイズ」の類としか思わず、どうでもよかった。
ただ、彼は陰陽師としても腕はよかった。占いも達者だし、祓いの験もあった。
今日では「陰陽師」というと、漫画の読みすぎのような人間が、すぐに伝説の「安倍晴明」のような人物や地位を思うが、それは密教僧と言えば皆「弘法大師」のような人だと思うのと同じことでそれは幻想でしかない。
江戸の裏長屋にいくらでもそうした職業の者はいたし、必ずしも古代の術の伝承者でもなんでもない。
占いをして祓いもすると言えば大概、陰陽師と言われた。
ただその術は多分にシンクレティズム(混交宗教)であって、神道を母体に真言や御経の一節も取り入れたものが多かった。
当時主流の「吉田神道」自体が、今の明治政府が早こしらした神道と違い多分に陰陽道的であった。
神道はもともと古い道教が日本で発達したものだった。
久光は腕の陰陽師で神社から依頼されて祓いを行った。
神社に属する神官は本来、神をいつきまつる神聖な職であり、対するに陰陽師は「祓い」を主として「穢れ」に触れる人であった。
ゆえに神道のなかでは神官以上の存在ではないというのが普通だ。
彼らの仕事は魔を払うことで、壮大な儀礼を古式ゆかしく行うことが大事なのではない。
故に「祓い」に効き目があるなら民間呪術でも真言でも何でも取り入れた。
江戸の陰陽師は占いも平安時代の「式占い」などやる者はむしろまれで、「方鏡」という方位占いもすれば、干支を主体とした納音占星術の「八卦」もやった。当時の「八卦見」とは筮竹をより分けての周易をやる「易者」ではなく、この「天門八卦」をするものを言った。
今回は堀田十兵衛以下おなじみの新右衛門、田島もともなわれて久光の家を訪ねた。
家は大きくはないがこじんまりとして新しく、まだ、ヒノキの香りもかぐわしい最近建てた客間で対面した。
近年、評判が上がり客が多いのでこの客間は四畳半ほどだったが新築したようである。
久光は意外と若く三十半ばほどに見える男であった。
眉目秀麗、色は白く、それでいて華奢ならず、声涼しく、品のただよう男前であった。
ただ一人住まいのようだった。
事の次第を話すと久光は「わかり申した。で、猫の死骸はお屋敷のどのあたりから出ましたか。」
あらかじめ屋敷の見取り図を持参して欲しいと言われたので、取り出して指し示すと
「やはり丑の方位か・・・鬼門であり、そして今年は庚戌年、豹尾神の滞在する方位です。
不浄を嫌う方位に埋めてある。これは素人ではなく多少、陰陽の術を心得たものの所業です。
とりあえず、方位の不浄を払うために御屋敷に参りましょう。それならさほどにおおがかりなことはいりません。」
堀田は「我が殿はただいま、原因の分からぬ御病気でござる。忌部殿には今後の災いの亡きようにお願いいたしたい。」
「わかり申した、仔細はお屋敷にうかがってまた。」
ということであった。
今、評判の陰陽師のアドバイスを得て三人は少し安堵した。
さて久光が屋敷に来る当日となった。
菊姫はどういうわけか、昨日より俄かに自室に閉じこもり出てこない。
久光は屋敷に到着するとすぐにあたりを見まわし、門の板間に何やら差し込んであると見つけてそれを引き出した。
「御覧なさい。岩田殿、こんなものが破門にさし込んである。」
見れば紙で切った「人型」であった。
当時の屋敷の表門は身分ある客が来ない限りは開けることは無かった。横あいの通用門を使うのが常だ。
従って、この人型も昨日や今日さしこまれたものではないようだった。
応対に出ていた新右衛門は「あ、これは夏越の払いなどで使うものですね」
「夏越の祓い」とは神社の境内に茅で大きな環を編んで作りそれをくぐることで災いを去るという神道の行事である。
今日でも六月三十日に多くの神社で行われている。
その折かねては「人型」で体を撫で。災いを川流しするのであった。
久光は「少し違います。」
「どう違うのでしょう?」
「この人型は切り方が常とは違う。しかも呪詛に使うもので、呪符がしたためてある。」
「一見・・・呪符は書いてないようだが」
「それは見えないでしょう。呪詛していることがわかぬようにそういうものは水で書くのです。」