新右衛門と田島が辻井家に還り、翌朝ことの次第を主計に話すと、主計は案の定、大いに落胆した。そして大きなため息をつき、がっくりと首を垂れたまま、短く「ご苦労だった。下がって休め」とだけ言った。
菊姫はというと、相変わらずぶつぶつ何か言うだけで食事には一切口をつけない。
それから数日のち。
田島が「新右衛門殿、あの寺にいた娘のした話を何故、殿にしないのですか。」とつめよるようにいう。
新右衛門
「できるわけがなかろう、殿がいかにまた落胆されるか考えてもみられよ。第一その娘だけが見たことだ。信じるに足らぬ。信じるに足らぬことをどうして殿に言えるのだ。」
田島
「だが、姫様はもう何日も食事をとられない。このままではお命にも障るのではないですか。これはもういうべきです!」
そうすると横合いから「そうでしょう。やはりお話しすべきですよ。兄上。」
という声。
声の主は新右衛門の妹「縫」であった。
縫は年子で新右衛門より一つ下だ。女中奉公に上がってこの辻井家にいる。
はじめ、大奥に上がるつもりで行儀見習いに来ていたが思うところあって取りやめ、このままこの家に努めることになったのである。
勝ち気でしっかり者の娘であった。
「なぜおまえ、そんなことを知っているのだ!」
「あ、寅之助殿!お主、縫にあのことを話したのか!」
縫は慌てて「田島様はこのことは是非にも殿にお話しすべきだが新右衛門殿はこのまま、しないつもりらしい。故にわたくしからも是非、頼んでほしいと言われたのです。」
「口が軽いぞ。田島殿!」さすがに辻井家の親類とはいえ叱責モードになる。
縫は田島をかばって声高に
「なにをいわれます。田島殿は実に忠義の士ではありませんか!それだけ菊姫様やお殿様のこと、お家のことを考えておられるのです。なにを聞いてどう考えるかはお殿様が聞いて判断されることです。
兄上こそこんな大事なことを秘密にしておいて何が良くなるというのですか!それは不忠というものではありませんか!」となかなか手厳しい。
「なんだと!兄を不忠ものというのか!」
新右衛門は腹が立ちさらに言い返そうとも思ったが、とっさにこの話を大声でし出せば周囲に漏れることに気が付いた。
故に「田島殿、もてる男は味方が多くてよいのう。」と苦笑いするとその場からそそくさと逃げだすことにした。
だが其の翌晩、「さすがに帰ってすぐにあの話はできないにしても、やはりせねばなるまいか…」と新右衛門は意を決して、主計に吉祥院門前にてヨネのした話を耳に入れた。
そして「なにぶん、年端もいかぬ小娘の言うことゆえ、こんな話をお耳に入れてもどうかと…」ということも忘れなかった。
だが、主計の態度は「やはりそうか!やはりそうだったか‼」と何度もいい、
「早速、お前は翌朝より、ただちに巫女でも陰陽師でも修験者でもいいから、魔物を退けるという評判のものを探しに行け」と命じたのである。
次の日、新右衛門は今でいう八月の後半、朝早くから炎天下に当てもなく「魔物退治の主」を探しに江戸の町に出ることになった。。
皮肉にもこの魔物退治の話は辻井の恥だ。
田島寅之助にも、お前の身内にもらすなと主計からはきつくいわれた。
かくして冒頭の江戸の町を徘徊する新右衛門のくだりとなるのである。