だがこの報告に辻井主計はたいそう喜んだ。
親心から菊が快方に向かった。いや、治ってしまったと思ったのである。
そうなればもう物狂い、乱心だろうが憑き物だろうが、そこはもうどうでもいいのだ。治ればいらぬ詮索である。
始めは何日預けることになるのやらわからないので、「世間には菊は小田原の親類の者の家に使いに行くことにしたが、もう治っているからと明日にでも帰されてきてしまったらどうしようか。つじつまが合わぬ」などと愚かな細かい心配までし始めた。
だが菊はすぐには帰っては来なかった。半月ほどたってはじめて寺から簡単な文による呼び出しがあり、菊をもう引き取りにきてくれという。
寺にはまた新右衛門と田島が向かうことになった。
「もうよくすっかりよくなられたのかな。」と田島。
「いや、どうかな・・・」新右衛門はあまり明るくは考えられなかった。
妙俊禅尼の前でみせた菊のあの変わりようがどうにも不可思議だったからだ。
寺に着くとお金のやり取りをした老尼が出てきた。
だが妙俊尼の姿はみえなかった。
「禅尼様は」と田島が聞くと
老尼は「・・・禅尼様は最近お体を害されて寝ておられます。」
「はあ、では、それで もう姫の世話はみられないということでしたか?」
「・・・・それもありますね。」とぼそッと老尼がいう。
今度は新右衛門が口を開いた「それも・・?」
「禅尼様はどういうご病気ですか」
老尼は何も言わなかった。
「姫は今どこに」と問うと
「奥でございます。案内いたしましょう。」
伴われて長い渡り廊下を言った突き当りに小さな庫があった。
「え、ここに姫が?」
中に入ると菊がいた。菊は明らかに前よりやせ衰え、何やらぶつぶつと言って座っている。
「蔵などに入れおって‼これは一体どういうことだ。」と新右衛門が声を荒げて言うと
老尼は「わたしにはよくわかりませんが、禅尼さまのお言いつけでございます。それで菊様をこちらへ」とだけ言うと足早に廊下をもどりいずこかに消えた。
「いや、こんな庫に姫を押し込むとは何たること!。禅尼が病なら仕方ないが後日必ず訳を聞きにまいりましょう。」と田島は大いに憤慨した。
菊は「さ、かえりましょう。」と言われて支えられるように庫から出た。だれもみおくりもなく三人は寺を出た。
山門のところにどこかに使いに出ていたのか、茶を運んでくれた娘とばったり会った。
娘はじっとこちらを見て立ち止まっている。
黙っているのも変なので「おお、娘御か、姫が世話になった」と新右衛門が言うと、娘は「・・・もうお帰りになるのですか…」とはじめて口を開いた。
娘はヨネといった。浅草の小間物屋の娘であった。
もう二年も吉祥庵にいるという。
「そなたも気鬱の病か何かでここにいるのか。」田島が訪ねた。
「いえ、・・・・わたしは」
「病ではないのか。」
「病とは言われてはおりましたが・・・。」「というと?」
田島が興味を持って聞こうとすると新右衛門が「そのようなこと聞かずともよいではないか。もう行こう。田島殿」
菊姫を待たせておいた籠に載せた。
治ってはいないようだ。ただ以前とは様子が違う。
ぶつぶつ独り言を続けて体にはまるで力が入っていないようだ。
ぐったりとして目はうつろだ。
新右衛門は「殿が菊様を見たらどう思うだろう…」と暗い心持になった。
「あのう、もし」
「ん・・・なにかな」
「・・・お姫様は病ではないと思います。」とヨネが言った。
「なに?」
ヨネが言うには菊の様子は初日来た時から三日ばかりはまるで正常な娘であった。
そののち禅尼と向かい合って話を交わした時のことをヨネはたどたどしく語った。
「初め、禅尼様は辻井様の御家中のことなどをあたりさわりなくお尋ねになったようです。」
ヨネが茶をもってふたりの会話する部屋に入ったのはこののちのことだった。途中まで二人は打ち解けあって、姫もはしゃぎ、年は違えどまるで既知の間のようだったという。
そしてよもやま話の末に禅尼は「そういえば・・・あなた様もそろそろ、お年頃、誰か心に想う殿方とかはいませんか?」と尋ねたという。
菊は田島寅之助の名を出したという。
「そう、田島殿が好きなのですね。田島殿の嫁後に行きたいの?」
菊はうなずいた。
「そう、その気持ちはだれかにお話ししましたか?」
「・・・いいえ」
「話してみたらいかがです?お殿様やお母上様に」
菊は黙っていたという。
「田島殿では反対されましょうか?」
「・・・・」
「あなたもお年頃…このままだとどこかにお嫁に行くことになってしまう。それが耐えられないほど辛かったのではないのですか?
それであのような奇行にでたのではないのですか。
誰か決められたお相手がもういるのではないの。あなたには?」
菊は相変わらず黙ってうつむいていたという。
「ひょっとして、あなた様はそういう奇行を行えば、もうその御縁談はつぶれるかもしれないと思ったのではないしょうか?」
菊からすすり泣きの様な声は漏れて聞こえたという。
ここまで聞くと田島はもう顔が真っ赤になって「そんなバカな!そんなバカなこと!」と連発した。