羽田談
論理学的な哲学と仏教の根本的違いは「不可思議」と言うものを言うか、否かだ。
前者はその不可思議こそを解明せんとするものだが、仏教ではたとえ論を尽くし、知を尽くしても最後まで不可思議は残る。
ゆえにそこに「信」が有る所以である。
信の所以は我今だ知らざるも、いたる道を知るが故である。
目的地は知らない。いったことはない。だが道は知っている。
先人が行ったからだ。
哲学は知と理の刀をもってそこに道を切り開く。
だが仏教は先人の歩んだ道をゆくのみだ。
大智のシャーリプトラも知恵の足らぬパンタカも共にいたる。
道有らばこそ。
なんの学問もなくても歩めばいいのが仏教だ。
しかるに仏道に入ってなお、門前で智の刀を振りかざして挑まんとする。
それは未だ門に入っていないのと同じレベルだ。
それは「疑」と言う煩悩である。