今回、日光修験秋峰で挫折し下山して初めて学んだという人。
そういう挫折は実は大事だ。実は「楽々余裕でいけました!」より本質的に修行だ。
「あんた、天狗の鼻がへし折れて実に良い修行だわ」といっておいた。
修行と言うと勘違いしている人がいる。
どう言う勘ちがいかと言うと、なんでもござれ、なんでもいい、見事こなしてみせるという自信に満ち満ちた人。そういう人はしんどいことを平気な顔してすることと思っている。
だがそれは修行の完成スタイルだ。スポーツや兵隊の訓練ならそれでもいいだろう。
スポーツは相手があり相対的なものだ。
兵隊さんはノルマに手が届かないと作戦にならない。
だが修行は自己とのむきあいのみだ、
行を始めたころ、わたしは真逆だった。自信も余裕もゼロ。
大峰山もエ~12時間以上?そんな凄い時間山を三日も歩くの?いけるかな・・・だし。
四国遍路を歩いて?ちょっと荷が重いかも。
加行もいや~こりゃ大変だ。持つかな…と言う風だった。
どんな行も全てそうだ。
最初やったときは十八道だってこんなに時間かかって・・・いやはや密教なんか絶対に無理と思ったものだ。
全部そうやってきた。カッコよさなんかゼロだ。
ただ一つ堅く守ったことは師匠が「これをしなさい」と言ったら、もうそこにはNOはないということだけ。
逃げない。
極端な話、悪くすると死ぬかもしれなくてもやった。
死んだら死んだだ。所詮がそれだけのつまらぬものなのだと覚悟した。
だから全部決死の想い。
必死のパッチだ。
弱っちい~人間だったので余裕でしたことなんかはひとつもない。
でもそれが修行になっていたのだと自分レベルでは思う。
むしろ、だからこそ修行になったのだと思う。
今以てたいしてそういう私は変わらない。
不安はいつもある、何とかする方法はない。
あるのは有無なくやれといえばやる覚悟だけだ。
ほかにはなんにもない。
祈祷だって「先生、自信ありますか?この案件」といわれたってそんなもんあるわけない。だが「なんとかならねば」という覚悟を持って臨む。
それこそ必死のパッチでやるだけだ。
だから お弟子さんでもできる人を歓迎すると思って勘ちがいする人がいる。
全然違うのだ。
行ができるのが大事なのではない。
そういう人は例外なく挫折する。
信仰に最も大事な謙虚のこころが薄いからだ。
修行とはそこから何を得られたかこそが大事なのだ。