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「懺悔文」に見る無始よりの業論

仏教は業論である。

幸福も不幸も自らの行為の結果と言う。

それは前世から繋がっている。

ここで問題なのは不幸な人は前世の行いの報いなのかと言うことだ。

身体の不自由な障害や貧困もそうなのか?

 

端的に業論から言うと言えばそういうことになる。

 

だから最近は仏教者も非難を恐れて業の話はしない。皆、断見的見解だ。

懺悔文はウィキペディアでは以下の如くである。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)[2]
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

大正新脩大蔵経, 大方廣佛華嚴經 卷第四十 (般若) [3]

偈文の訳(和文)

我れ昔(むかし)より造る所のもろもろの悪業(あくごう)は
皆無始(むし)の(とんじんち)に由(よ)る、
身語意(しんごい)より生ずる所なり、
一切我今(いっさいわれいま)、みな懺悔(さんげ)したてまつる

 

ただ忘れていけないのはこの業は懺悔文を見れば明白だが

「はじめなき過去より貪瞋痴のよる」とある。

だから私たちが一代や二代の罪どころか、三葉虫や恐竜だったころのも含むのだ。

その意味で言うなら業の軽重など無い。

イメージからいうならキリスト教の原罪と大差ない。

私だって仏道修行の真似事のようなことをしてはいても明日にも両手両足を失うような目に合わないとはいえない。

両眼はふさがるかもしれない、横死するかもしれない。

 

そんなことは皆一緒なのだ。

だから業論を差別などと言うのは仏教の理解のない人の言うことだ。

最近は坊主もそのへんを勉強せず理解がないから「これは差別につながる。まずい。」と思っているのだ。

坊主からしてこのざまだ。バカバカしい限りだ。(笑)

業論なくして仏教無し!




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