覚有情と書いて「菩薩」。悟れる生き物と直訳できるが、
「悟りてなお情けあり」と天松居士は言われたと聞く。
感情を滅却して「木偶」のようになるのが修行ではない。
さりとてプラス思考の身にて生きることでもない。
昨今の妙な心理本の様に明るい心だけで生きようとするのは暗き心にとらわれた時の薬だ。
薬は用い方ではかえって心の病気になる。
四六時中晴れではいられぬ。雨風あって万物育つ。
五気七情そのままに仏の心だ。
如来の心だ。
こころの働きがない方が良いなら草木の様になってしまえばいいというのに等しい。
苦しみからの逃れることだけを考えれば究極そうなる。
インドの苦行者の様に何日も瞑想に入って動かない。
そういう修行はあってもいいだろうが、そんなのは目的じゃない。
少なくとも大乗仏教はそんな存在になるのに修行するわけではない。
超人的なものに人はなれない。それは妄想の最たるものだ。
なる必要もない。
この喜びは仏の喜び
この悲しみは仏の哀しみ
この怒りは仏の怒り
そういう心であればいいと思う。
そういう風でありたい。