イスラエルとイランとでまた恐ろしい戦がはじまった。
世のなかを見回すと残念だが世界平和のためには宗教がなんの役にも立っていないようにみえる。
そればかりか、宗教の派閥の違いからさえ憎みあう。火に油を注ぐ。
仏典「仁王般若経」には天下の乱れはまず、鬼神が乱れることより始まるという。
だが、私は目に見えない「鬼神」が戦いあって乱れればその霊障で地上では戦争になるのだというようなことを言うつもりは毛頭ない。
それでは戦争する人間に罪はなく鬼神がいけないのだということになろう。
そういう考えに人類の反省も共存も生まれない。
「悪霊に憑依されて人を殺せと言われたから殺したので、本当の私は悪くありません」みたいな愚かな理屈だ。
悪魔は悪くない、我々がともすれば悪魔そのものになるのだと知る以外ない。
ここでいう鬼神乱れるとは我々の集合無意識が生み出した世界だ。
我々の想念の積まれたものだ。言い換えれば鬼は我々自身だ。
憎しみの念が、怨みの念がどんどんそうした世界で積み重なって見えない世界で動き出し、ついに地上の戦いとなる。
阿修羅や乾達婆、ナーガやデーヴァなどの冥衆のことではない。彼らも人類の戦争に関わって翻弄されるとは思うが原因ではない。
仁王般若経はそれを収められるのは王つまりリーダーの正しい信仰だという。
仁王とはそういう元首やリーダーを言うのである。
そしてここで大事な信仰とは何か特定の神様を信じなきゃいけないとか、どっちの神様が本物と言うような一神教でよくやっている愚かなことではない。
仏教でなくても、何の信仰でもいいが「一切衆生」への慈悲ということだ。
当初から一貫して「一切衆生」と言うのは仏教だけだろう。
だから仏教が素晴らしいとは思うが別に形はキリスト教でもイスラム教でもいい。
それこそ一切衆生だからそこについては何教でもいいのだ。
一切衆生を入れてくれればいいのだ。
戦争を収めるものは同悲の心以外ない。
私体は国のリーダーでもなんでもないがせめて「仁王般若経」を読誦して世界の指導者が同悲のこころを起してくれるよう。また我々が同悲の心を忘れぬようにするのみだ。
このところ聖天尊浴油の法楽には理趣分にかえて仁王般若経を七日で全巻読むようににしています。