「我を祀る輩は三世の障難を破し、現世の祈願稲光のごとく成就すべし。
我衆生の苦に代わりて日夜金丸を呑み魔界の苦者を救う也」
三世とは過去世、現在、未来世です。過去世の障難とはなにか?
それは過去からの業の持越しです。
此の過去世の業と言うのは行為自体は改めようがない。
もう過去のことですから。
過去世で人を殺していると言われても、タイムマシンに乗って過去世に戻って殺さないようにするというほかない。
でもそんなことは不可能です。
過去世の行為はいわば我々の心の奥に記憶として残るのです。その記憶からは異熟と言う次の人生を形成する単位が生まれます。
それを手放さないといけない。
もう関係者は今は誰もいない。それがあるのあはあなたの阿頼耶識の中だけです。
それはもう手放せばいいだけです。
それを手伝うのが飯縄様。
飯縄様を信仰する方は記憶にもない過去世の業など苦しまずに、ただ飯縄様をたよればいい。
とはいえ滅罪生善は仏道の基本ですから、日々懺悔の心は大切です。
仏道の懺悔は罪の思いをただ深くするだけでなく、自分の本質は仏と同じと思いなし、その罪を手放すことが目的です。
そうした衆生の苦を想いでに日夜金丸を呑む。普通、伝説では悪天狗は溶銅熱鉄を呑むと言います。そういう悪業がある。
でも飯縄様は金丸を読む、これは仙丹ですね。仙人のお薬です。
飯縄様は衆生の業を代わってどろどろの熱鉄などは呑まない。そういう犠牲が仏教には必要ないのです。
ドロドロの音ってつを呑むような懺悔では罪は消えません。永遠にしなくちゃいけない罰でしかない。そういう罰は自分がいかに悪いかだけを心に刻むけど手放せません。
飯縄様の本地はお不動さんと今一つは「地蔵菩薩」です。
地蔵さまの誓願は人の苦を代わって背負う「代受苦」といいますが、業は本来空であるという悟りに達した地蔵さんに「犠牲」はないのです。
あるのは「あなたのその苦しみを代わりましょう」という大きな同悲の想いです。
「我を崇める行者には影の形に随うがごとく片時も離れず、これに加えて行者に怨為す輩はまず、大天縛小天縛をやり、五体を微塵に打ち破り空中に投ず」
これは不動尊の「影の形に随うがごとく」と誓願を同じくするものです。
飯縄様は頼まずとも怨敵を打ち破って去らしめる方です。
これはほかの天部にも言えますが調伏せずとも天尊の信頼を得ているものは怨み為すものは退けたまうのです。
此れゆえ「天部」の行者は仮初も怒りに任せ調伏など為すまいぞ」と言います。
亦それだけに行者自身にあやまちあれば容赦なく怨敵同様の手厳しい罰を受けます。
このゆえに天部を恐れる人は多い。
「この法を受持し尊ぶものは火にいるも焼けず、水にいるも溺れず、いわんやまた害を加えんをや。なかんずく仏法を守り、王法を守り 万民を哀愍せん。」
飯縄様の法を受持すれば水火の災いから身を守り、怨敵から身を守り、そして飯縄様は仏法、王法(世法) を守護して万民を守ります。