人の欲望というものはヒマラヤをすべて黄金に替えてあてても尽きないと釈尊は言われた。
だがそういう物欲だけではない。
人の幸福は喜怒哀楽の感情のうちにある。
すなわち喜びを求め、
怒りを晴らし、
哀しみを慰め、
楽を求める。
これらの感情の充足を「幸福」と呼んでいる。
だが実はこれらも釈尊の言われたヒマラヤの比喩と同じだ。
尽きることはない。
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よって私たちが幸福の追求で満足することはないのだ。
それで表面上はうまくいっているのが資本主義社会だ。
資本主義思想は加えて「自由」というもうひとつのヒマラヤを与えた。
共産主義思想は加えて「平等」を与えた。
これらも求めて止まない。
人は何かというと自由だ平等だと騒ぐ。
現代人はそれが失われたりすることがとっても怖いのだ。
これらを求めていくのがいわゆる「幸福の実態」だが、どれも尽きない。
尽きぬということは無限に伸びていくのだが、裏を返せば満足しないのだ。
我々は満足出来ない生き物だ。
仏道はこれらを渇愛と言い煩悩と呼ぶ。
これらを求めて生きていくことが人生の意味だという考えを否定する。
それを極力否定したのが初期仏教や上座部仏教だ。
喜怒哀楽の追求をやめる、そういう生き方だ。
大乗仏教は否定することのでなく出力反転した。
「求める」のでなく与える「幸せ」をえらんだ。
大乗とはそういう生き方だと思う。
なんでものみ込んで飽き足らぬブラックホールの幸せから、出だす側、ホワイトホールの幸せへの転換だ。
幸せに暮らすとは自分が周囲や環境にできることがあることだと思う。
理趣経で言う「菩薩勝慧者は乃至生死をゆくすまで恒に衆生を利益して、しかも涅槃に赴かず。」
大楽とはこのことだと思う。
世間の楽は何であれことがすめば消えていく。
大楽は自他を利益して楽しみを増す。
涅槃すら求めぬ道だ。それがそのまま大乗の涅槃だ。
何か特殊な瞑想行法みたいなことをして脳内モルヒネに酔いしれるようなバカなことが大楽ではない。それでは凡夫と同じ位置にいる。