むかしは寺社は勿論、新宗教にいたるまでおよそ修養を旨とするところではトイレの清掃は大事にされた。
わたしの武術の師匠N先生は若いことろ親の意向である神道系の大きな教団で修行した。
そこではトイレ掃除に新聞紙一枚とバケツの水を渡されてこれで便器をふきなさいという。
ところがN 先生は一枚でふき足らず、もう一枚下さいと言ったところ。
「一枚まで拭いて下さいといいました。さっきあげたでしょう。と断られた。
「足らない」というと「ほかの人は拭けてますよ。」といわれたそうだ。
まあ、トイレは今日なら柄のついたスポンジに洗剤とかでふくところだ。
そう言うものがない時代と言えばそうだが、それでも新聞紙はそうはないと思う。
宗教施設で打つ 蹴るなどの暴力沙汰やセクハラなどはあってはならない。
しかし、こうしたこともいま、もしこう言う修行をすれば、人によってはすぐに「いじめだ」とか「衛生上問題だ」というに違いない。
宗教の修行でさえも。
教団側もいじめがあったなどと言われちゃ敵わないから教団は震え上がる。
かくして修行とは名ばかりの生ぬるい自己満足の日々が道場に流れていく。
だが、それでは人はなにもかわならい。
変わってこその修行ではないのだろうか。
本当の危機には対応できない。