シリアヒグマのヴォイテクは、今から80年以上も前、第二次世界大戦中のポーランド軍の輸送部隊に所属していました。最終的な階級は伍長だったといいますから、人間としてならば下士官の扱いです。
クマということで人間を襲うほど狂暴なのではと思ってしまいますが、記録によると、仲間の兵士とともに各地を転戦し、ともに食事をし、歩哨にも立ち、敬礼をすることもできたといいますから本格的です。
ヴォイテクの主な仕事は弾薬の運搬でした。体長は約180cm、体重は250Kg以上あり、パワーも人間の兵士以上だったといいますから、人間には運ぶのが大変な砲弾の入った弾薬箱を運ぶのも軽々だったようです。
ポーランド兵たちに可愛がられながら過ごしたヴォイテクは、各地を転々としました。このときの交流の記録なども残っており、兵士たちと格闘技に興じていたといわれています。また実戦においても、北アフリカ戦線で紛れ込んだスパイを発見するというお手柄をあげたこともあります。
こうして部隊になじんでいったヴォイテクの名は、次第に広くポーランド軍、ひいては連合国軍に知られるようになっていきました。
連合国軍によるイタリア上陸作戦が開始されると、ポーランド軍の輸送部隊もその作戦に参加することになりました。しかし、輸送艦で動物を運ぶことは禁じられていたため、ヴォイテクはついていくことができません。そこでポーランド軍司令部は一計を案じ、ヴォイテクを二等兵に任命します。正式に軍籍番号と軍隊手帳を発行し、ポーランド軍の兵士として船に乗せたのです。
正式にポーランド軍人となったヴォイテク二等兵は、人間にもなかなかできない大きな活躍をします。1944年1月から5月にかけてイタリアで起こったモンテ・カッシーノの戦いにおいて、ヴォイテクはほかの兵士たちとともに、弾薬の運搬を行ったといいます。
ヴォイテクは45Kgもある弾薬箱を軽々と持ち上げ、また一発10Kgの25ポンド砲弾を何往復もしてトラックから運び出し砲撃手に渡していったといいます。戦場は足場の不安定な山岳地帯でしたが、それでも一度も落としたりすることはなかったと言われています。
砲弾が飛び交い大きな発射音や爆発音が響く戦場でも、ヴォイテクはひるむことなく、驚いて味方兵士を傷つけるといったことも一切なかったといいます。
このモンテ・カッシーノの戦いでの功績でヴォイテクは伍長に昇進。さらに、ヴォイテクの所属する第22輸送中隊は、「砲弾を持つクマをかたどった紋章」を公式シンボルとすることが軍司令部に認められました。
モンテ・カッシーノの戦いから約1年後、ドイツが降伏し欧州での大戦は終結します。ただ、ヴォイテクがポーランドに凱旋することはありませんでした。
戦後ヴォイテクは、スコットランドのベリックシャーに移送され、他の隊員と共にしばらく行動を共にしました。その後、1947年11月15日にヴォイテクはエディンバラ動物園に預けられることが決まり、そこで余生を過ごすことになります。しかし必ずしも仲間に置いていかれ、孤独だったという訳ではありません。
実は、イギリスやアメリカと共に北アフリカや西欧で戦ったポーランド人部隊の将兵の多くは、戦後の東西冷戦によりポーランドがソ連寄りの共産主義国家になった映鏡で微妙な立場におかれ、祖国に帰還できなくなってしまいました。
そのため、イギリスに残り、ヴォイテクに会いに行く戦争当時の戦友もいたといいます。ヴォイテクはかなり記憶力のよいクマだったそうで、戦友が顔を見せポーランド語で話かけると、再会を喜んで反応していたといわれています。
そして現地での人気も高く、すぐに地元の民間人や報道関係者の間で話題となり、ポーランド・スコットランド協会の名誉会員となったほか、イギリスの公共放送局、BBCの制作した子ども番組にゲスト出演したこともあります。
ヴォイテクは1963年に21歳で亡くなりましたが、ヴォイテクの功績は現在でも伝えられており、ポーランドのクラクフ旧市街の近くにあるヘンリカ・ヨルダナ公園には今も彼の銅像が建てられるなど、英雄クマとして、ポーランドの人々に愛されています。また、もちろんイギリスにもその功績が広まっており、ダックスフォード帝国戦争博物館や飾り額が、ロンドンのシコルスキ博物館には記念碑があります。