愛染明王は実に面白い仏である。
愛染明王の三昧を「超過大日離愛三昧」という。
大日にも超過してというが、大日よりその働きが具体的である意味だろう。
金剛界大日の所変とするから大日を離れたものは当然ありえない。
離愛三昧について問われるが、愛とは何かの本質が理解できれば愛欲の煩悩に振り回されず人を愛するということだろう。
貪愛を離れる意味だ
愛はすべて自己愛の変形であるという。
ならばそれなら自分のみを愛していればいいと思うのだが、それでは人間は満足しないい生き物だ。
外材化して他を愛する時、はじめて自分はおおきく広がっていく。
故にインドのリシ(聖仙)の如くヒマラヤなどに人を絶して籠り瞑想にふける一生は密教的ではない。
少なくともそれは密教の在り方ではない。「恒順衆生」である。
愛染尊は怒りの相だが、これは初重には自己の貪愛の煩悩を呵責し、
二重には思惑を呵責し、三重には見惑を呵責し、四重には一切衆生の煩悩を呵責する。
およそ真剣な愛というものは必ず怒りを伴う。
どこで聞いて来たか知らないが「愛染明王の忿怒は愛欲の至りの表現だと言いまよね?」という人がいた。
いうところは愛欲に狂う姿の仏というのだが俗すぎる解釈だ。
愛染明王の三昧がそんなものでは仏道にならない。
霊狐さんに言わすと「愛染明王の三昧は最終的には全てを愛しながら、自分は「空」を体得すれば、中心は「空」でドーナツの様なものができる。」という。
人を愛するも自分のために人を犠牲にする愛はなくなっていく。
故に愛を得るためにするのでなく愛を拡大するための行法だ。
それは大日の慈悲と別ではない。同じだ。
大日の慈悲に至るのは一つの目的、愛染法はそのための優れた方法だ。
そういうことだと思う。
少し前に人に伝授したが、「久しくせぬな。お前もやれ」というので今、少し整理して準備中だ。
