金剛不壊なるものはもとよりある。
病気しても
失業しても
会社で罵られても
試験に落ちても
どんなに情けなくても
本当の自分は金剛不壊だと信じる信仰。
その根拠は?
そんなものはよい。あえて言えば古今の大徳の言を信じるのみ。
法華経に言う「衆生劫尽きて大火に焼かれる時も、わがこの土は安穏なり」だ。
それを信じるだけ。根拠を求めて人は一生を過ごす、それを修行だとか研究とか言うがそれは違う。
そう言う智的作業では真理はともかく真如には至らないと思っている。
真理は理屈だからあるいは至るかもね。
思考や言語での解明は地上から船を出して海の底をあれこれ観察するにすぎない。
海には入っていない。
信なくして至らぬ世界。
私の場合は大した理由など何にもない。
なぜなら、そのほうが行きやすい、それだけ。
平たく言えば生きる知恵だ。
いつからかそうしている。ただの思い込みと言われても何も反論はない。
大乗とはそうしたものではないかと最近は思っている。
でなきゃ凡夫には無理だ。
少なくとも私には。
根拠なくして信じるのを妄信というなら妄信だろう。
ただし、現実への認識と内在の金剛への信仰。
これはどちらか一方でいけない。
現実の認識に追われるだけでもいけないし、金剛なるものがあるからと言って、現実のこまごまををおろそかにしてもいけない。
迷故三界城
外に真実を求めても迷いは深まり迷路に入る
悟故十方空
外にはいくら求めてもないと悟る
本来無東西
東西と書いてあちこちともいう。あなたよ、あちこちするなかれ。
何処有南北
古歌に曰く
極楽を西や東と探すなよ
北(来た)道探せ、南(皆、身)にぞある。
というようなものだろうか。