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本不生の話  「大智の舎利仏 なお信を持って能入と為す」

「本不生」ってなんでしょうと加行者から聞かれて「宇宙は時々刻々姿を変えているが本当は始まりとか終わりとかはないのだ」という意味の話をした。

「それって今ひとつ理解が難しいお話ですねえ・・・」という。

「本当なんでしょうか?」という。

 

「本当かどうかですか?知りません。私もああそうなんだ・・・とただそう思っているだけです。他には何にもないね。」

 

宇宙に始まりあるとすればビッグバンがどうのこうのとかいえるけど、それだってどこから来たのか?誰も知らないよね。天文学者がそういうので、そうかあ…というだけだ。同じようなもの。

仏教ではだから始まりはない、言い換えればはじめから存在はある。姿は変われどももとより生ぜずという。今風に言えばそういう理解になるかな。

 

でもこれは信仰だから、そんな理由はいらない。結論から説明つけしているだけだ。

だから、それはなんとなくそう思うだけでいいと思っている。

幸い私は学問的な深い知識はない。あれば多分理屈で何とか言う方はこういっているとか、何とか言う論書にはこれこれこう書いてあるとか滔滔と語って誤った道に入るだろう。

そういう理屈からでた結論ではないのだ。

 

「宗教を信じる」というけど、どんなに信じてもそれは「確信」じゃない。

確信なら信じる必要はない、科学の様に事実を見ればよいだけだ。

だが本当の信仰は「信じる」こと自体。

理解や解明の結果ではない。

つまり「人生これで行こう」というだけのことだ。

 

だからよく宗教では「信じるこころが足りない」というけどそんなもの足りるわけがない。臍が茶を沸かすわ!(笑)

信じることにして生きる。まあ、それが信仰だろう。

 

私は「アンタやる気がないならやめたら」とは言うが「信じる心が足りないからダメ」などと言ったことは一度もない。

むしろ、信じる何かがないからこそ求めて一生懸命修行するのじゃないの?

真実かどうか?など誰も知らない話だ。

信仰ってそういうものだ。

 

昔のことだが「あなたはその信仰が正しいという確かな証はありますか」と聞いてきた他宗教の人がいたが、そのころも、今も私は「そんなものはない」と答える。

だから信じるだけ。

「そんないい加減な信仰なら、確かな私たちの信仰をすべきでしょう?」と言ってきた。

私は私の信仰に証はない。

しかし、それは私の信仰がダメだからでhない。

信仰にはそんな証しなんかないのだ。

自分が感じるだけだ。どんな宗教でもそこは同じだ。

証があるというものは私は宗教をカラキシわかっていないと思っている。

黄色いくちばしで喚いてるだけだ。

そういう幼稚な奴らが宗教戦争とかしょうもないことやらかす。

何が真理か・・・そんなことより私は仏教が好きだからしている。それだけのこと。

 

加行者には「ただ、エネルギー不変の法則というのがあるから、一定のエネルギーはどこまでも姿を変えて続いていくんだろうとは思うが・・・」とは言っておいたが。

 

「大智の舎利仏 なお信を持って能入と為す」

 




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