本体真如住空理
寂静安楽無畏者
鏡智慈悲利生故
運動去来名荒神
これを「瑜伽切文」と言う人もあるが「瑜伽切文」の一節にはこの偈はない。
さらにいうと瑜伽切文は「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経」の略でも抜粋した一文でもない。
「若凡若聖偈」ともいうが天台方ではほとんど用いないようです。
三井寺では荒神は特に重要な尊とする。
大勝金剛と同体とし十二臂大日ともいいます。
さてこの偈でありますが不思議なものです。
これは荒神とは何かというもの。
本体は真如であり「理」であるという。
ここの部分は理知不二でいうところの胎蔵曼荼羅の思想です。
寂静安楽無畏者とは浄寂光土つまり霊山浄土の境地を言うものと思います。簡単に言うと法華経の境地。
無願三昧とも言い、願わずともそこに「我がこの(浄)土は安穏にして 天人常に充満せり」の境地。即ち無畏者でしょう。
鏡智とは大日如来の五つの智惠の一つ「大円鏡智」つまり阿閦如来に代表される金剛部の智惠です。
「鏡に映るようにもっともありのまま」にものを観るという仏の智惠。
少しも私見や私観を入れない。
この阿閦仏はさらに変じて大忿怒の降三世明王となる。
これが最も金剛部らしいほとけの形です。
金剛部の徳は調伏、その所作は少しも私を入れないものでなくてはいけない。
諸仏の調伏は起きるべきして起きるもの。
本当は行者自身が行うものではない。
行者はただその承仕にすぎないのです。
それは諸仏の大いなる「慈悲」から起きているから。
諸仏の大慈悲とは生命を活かす力「利生」で自然智のことです。
その所作・働きを荒神という、
それが「運動去来名荒神」
これは理からその働きとしての智への移行であり金剛界の智惠です。
ここに胎蔵の理は大いなる慈悲を生み。
一見、生殺与奪にみえる自然界の働きも実は生命を活かす営みである。
それは慈悲調伏一体の世界。
理趣分には実は一切有情を殺害するともカルマにならないという恐ろしいことが書いてありますが、その意は自然法爾のものを活かす慈悲は時に大調伏ともなる。
それは人為ではないし、人為であってはならない。
其れでは地下鉄サリン事件と同じ理屈になる。
それは人の考えることではない領域なのです。
色々な先進医療は結構だが、最近は遺伝子操作などの分野で人のふれてはならない領域を超えようとしているのではないかと不安に思います。
その所作自体よりも原動力は知恵でならぬ愚かな人の煩悩に過ぎないのが怖いと思うのですが・・・。
生命は常に生まれ常に死する。
私は生き物は生き物を食べて生きている事実を見る時、それはカルマにはならないと思っています。それがこの娑婆の現実である以上。
故に釈尊もチュンダの供養した豚肉料理を召しあがった。
ただそれを超える慈悲はあるべきです。
ここが大事です。
何が正しいかこの世に問うても無駄なこと。その答えは用意されていない。
この世に声あれば言うでしょう。
お前は誰だ?
誰にとっての正しさを問うのだと。
是非ではなく慈悲の問題だ。
この世の有為転変破そのままに荒神の去来する姿。
そこに供養という慈悲が加えられて初めて仏道となる。
※理生護摩 加行神供の三宝荒神を祀る神供壇
