行者さんで体調不良の人。
光明供を拝んだらどうですかとお勧めしたら卓越した効験があったらしい。それまではなかなか起きるのも大変だったという。
光明真言供にはそういう力がある。
亡者の成仏以外にも、病気平癒、霊障の解除。
貴人の愛顧を受ける。天部の法楽として喜ばれるなど多くの功徳を満載する。
歓喜天、大黒天、飯縄尊などは特にそうだ。
弁才天や吉祥天などは随求陀羅尼も喜ぶ。
別に霊関係のむずかしい御祈願をしていたわけではないが祈願には必ず、諸霊群がってくると思った方がいい。
だからそうしたものから身を守れない人は祈願の行者は無理なのだ。
仏教の御祈願で必要なのは「剣」以上にその何倍もまず「盾」なのである。
悪霊を退けたはいいが向こうからも置き土産の深いダメージを受けて亡くなることすらある。
祈願はそういう怖い事なのだ。
できるものとできないものはおのずから分けられる。
「誰でもできるんですよ。やりましょう。やりましょう。」などというふざけたものではない。
在家理趣分などは自行だからこそ授けている。それも准胝独部法10万を満行しなければ許可しない。
そこは一種の足きりといえばそうだが、自行においては素質までは問わない。
やる気ひとつで行ける。
霊的感覚のすぐれた人はままいる。
だからと言って行者志望をそのままにはうけられない。
それが理解できないで不満な人も過去にはいたようだが。
霊感あればこそ、逆にそこはきっちり仕分ける力のない人は霊障の塊のようになる。
とりかえしがつかない。
それはトレーニング以上に素質の問題なのだ。
霊感型の人はほとんどが受動型オンリーであり、祈祷の様な能動にむくかどうかは別だ。
虚弱体質の人、健康を損ないがちの人もこれに準じてダメだ。
山に行って霊肉ともに強い体を作るのはこのためでもある。
稀に両方の力を持つ人もあるが、10人に1人もいない。
だから霊感強いという理由だけで祈祷やりたいという方は原則お断りする。
多くは本人は素質満点と思ってくるようだが、残念ながら0点どころかそれ以下だ。
霊的に鈍感とか何もない方の方がよほどやりやすいことが多い。