邪教とはなにか。それは知を停滞させるものだ。
考えることを否定し、思い込みを強要します。
背景には神という絶対者をたててくるので精神的にそこに飲まれる人は多い。
ただ神がいるという客観的な証明はできない。
そして神の定義もできない。創造主?至高の存在?
至高ってなんだ?とても偉い方、絶対者。
抑々偉いとは?天地を創造すると偉いのか?
親は私を産んだから絶対的に偉いというのに似ている。
親には愛情を抱き感謝すべきだが、間違いのない存在かどうかは別だ。
どれも具体的なものはなにもない。
人によりそれなりの答えはあると思うが、そこは非常にあいまいだ。
信じるか信じないかはその人の感性の問題であり、証明などできない。
これは神だけでなく仏も同じだ。
例えば私が仏教を信じる理由は?信じたいからだけだ。
何故なら仏教の考え方が好きだからだ。
それだけだ。ほかになにもない。
他の理由は口にしても刺身のツマよりも意味はない。
あるか、ないかを争うこと自体無意味だ。
神や仏をあるとないというあいまいな感性のうえからすべての宗教は出発している。
それを忘れてはいけない。
前提となる根拠が客観視できずあいまいであり、したがって、その上に立脚するあらゆる教えもあいまいで脆弱なものなのだ。
科学と同列には論じられない。
どんな緻密で精緻でもそれは理屈でも科学的事実でもなく、ただ感性の土台の上になりたっている。
ただそれは決して無意味とか、無価値ではない。なぜなら私たちは多分に感性の存在だからだ。ただの息をしている肉の塊ではない。
「そんなことはない。神の存在は証明できる。家でも車でも薬でもなんでも作ったから存在するのだから。この天地も神様が作らないならなかったのだ」という説明をしてくれた人がいたが、それは失礼ながらバカの考えることだ。
理屈になっていない。
厳密には人間が作ったものなどなにもない。すべて自然界から抽出し加工しただけだ。
宗教は自分の感性で感じ取るもの。選ぶのは自分だ。
そこに縛りなどない。
邪教は始めから終わりまで神に抗うという罪に対する恐怖の支配する縛りだけだ。
知的進歩も覚醒もない。
脳が停止している。
疑うことは罪だからだろう。
疑っても疑っても疑い切れぬものこそホンモノではないのか?
疑えば消えてしまうようなものなど所詮偽物だ。何の役にも立たない。