ある方から「僧侶でありながらよからぬ所業とをしている方がいる。
そういう人間は仏様から一体どう見えるだろう」との質問。
「信賞必罰の仏はいません。仏は我が心の曼荼羅におわします。我々の行動をいちいち評価しません。
信仰する人の心にジャッジはあります。しかし仏はジャッジする存在ではないと思います。」と答えしました。
金光明最勝王経に「於善悪人皆擁護 慈悲愍念常現前」という偈があります。
若しも仏にジャッジがあるなら世の中の悪人はすべて成敗される筈です。
犯罪も戦争もい争いもなくなるでしょう。
でもそれはない。

それは仏のすべきことではないのです。
仏は慈悲と救いの存在です。
仏ならぬ私たち人間の知性と理性のすべきところです。
役割が違う訳です。
だからこそ人たる我らの祈りに増益、息災、調伏、敬愛がある。
我々は自己の責任において誓願ある仏に祈るに過ぎない。
天部や実類の神霊などは我々と同じ衆生ですからそこは少し違います。
天罰もありうる。
しかしながら、善悪というのは時代によっても違います。人のこころによっても違います。あるひとりの人の善悪の基準を以てすべてを裁くのは不合理です。
そこのところを善悪不二と言います。
何故不二なのか、同じよくなりたいという心から出ているからです。
それは是でも非でも欲ですが生き物全ての持つ生存の欲であり頭から否定はできない。
大石内蔵助は勝軍地蔵に必勝を祈り見事に「討ち入り」を果たしたと聞きます。
しかし、現代ではいかに深い恨みがあろうが徒党を組み、屋敷に攻め込んで首を討つというのは通らないでしょう。
ここに将軍地蔵はそれを容認したのか?という疑問があります。
仏が良しとするなら現代でもそうあって良い筈だろうという理屈も出ましょう。
しかしそうではない、将軍地蔵は吉良上野介を憎んだわけでもなく、浅野や大石に同情したわけでもない。
大石内蔵助が祈りによって将軍地蔵の力をダイレクトに頂いたというべきでしょう。
彼の義の心は何の疑いもなくその仏の力を受けたというべきです。
内蔵助は吉良さんを殺すのは実は悪いことではないのか?という疑いもなく、これは正しきことと信じて行ったのでしょう。
そしてそれは当時としては褒めるべきことでした。
今でも時代はちがっても彼の「義」は評価されるからこそ忠臣蔵は上演されれば人気があるのです。
人の価値観は動きます。絶対悪も絶対善もない。
大切なのは未来にどうつながるかということです。
人の未来を活かす働きが仏の働きです。