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お預かりのこころ

今でも言うところはあるが、昔は商店ではお金を支払うと「○○円お預かりします」と言った。

お釣があるからお預かりではない。

お釣がなくても「ちょうどお預かりします」という。

 

要するにすべてのお金は「預かりもの」なのだ。

それが日本の商家で言われてきたお金を頂く時の言葉。

そこにはお金は天下の融通ものであり、仮に私が預かっているという深い知恵がある。

 

俸給はお預かりとは言わない。自分の労働で得たものだ。

職場で労働した報酬であるからお預かりという思いはないからだろう。

そこは商家はわざわざ自分のお店で選んで買っていただいたという思いがある。

だがお金というものの本質は同じだ。廻りもの、預かりものである。

 

ゆえに昔の名のある商家は皆、質素倹約を旨とした。

そこには「お預かり」の心が根底にあるからだろう。

だが、同時にため込むばかりでは世の中の金の周りは悪くなる。

世の中のためを考えれば、使うべきはドンと使えるのもお金の価値だ。

まとまったお金があらばこそだ。ゆえに私はいわゆる清貧などというものは全く評価しない。

皆がそうあれば世の中は貧しくなる。間違った考えである。

浄く貧しく美しくというが、人が浄く美しくあるのに貧しいは必要ない。

貧しい故に盗みや悪事も起こりうる。

 

昔、生長の家の創始者・谷口雅春師は「慳吝ということは働いているものにすら施さないということだ」といわれた。

ゆえに仏教でも貪を戒めるのみならケチも戒める。

これを「不慳貪」という。

 

節約も過ぎればすなわ同じく貪りである。

お金は貯めるばかりでもダメ、お使うばかりでもいけない。

どちらも下手をすれば「不徳」である。

そこにはなかなか知恵が必要だ。お預かりの心が必要だ。

 

観音経に護法神の天龍八部衆が観音菩薩を讃えて無量無上の価値のある素晴らしい「瓔珞」を送るくだりがある。

観音菩薩は「そのようなものはいりません」というが、これを制して釈尊は「うけておあげなさい」という。

観音菩薩はそれを受け、それをまた釈尊と多宝仏塔に供養する。

このくだりを智慧の薄き者は「無欲であれ」という意味のみにとるが、そうではあるまい。

無欲なだけならただ受け取りを頑として拒めばいいのだ。

 

八部衆から観音。観音から釈尊、多宝塔へ。

そしてそれはまた一切衆生へと・・・

ここには流れがある。

お金は融通してこそお金。それ自体には価値などない。

金庫に永久においてあるだけのお金はただの紙や金属や数字だ。

 

 

 

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