今日は東京のお寺に開眼にまいります。
立派な阿弥陀様が待っておいでです。
今朝、無我相禅の跡で
「古今の碩学、大徳もみな最後は六字の名号「南無阿弥陀仏」だよな。
准胝独部法と宝筐院陀羅尼の普及に生涯をかけた豪潮さんでさえもそうだったという。
やはり念仏なのか…真言ではどうなのかな・・・」
と考えていたら霊狐さんがみえた。
「南無阿弥陀仏もオンアミリタテイゼイカラウンもかわることはない。
名前で呼ぼうが「あなた」と呼ぼうが、「お前」と言おうが同じだろう。
そこに阿弥陀仏を念じれば同じだ。そもそも天竺にナムアミダブツなどとは唱えない。」
「・・・それで往生できますか」
「できる。
お前は常々浄土を遠きにおいて考えているようだが、実は九品の浄土というように極楽は一つではない。阿弥陀に呼びかければ人は有縁の極楽に行けよう。極楽は九つどころか無数にある。
往生とは死後も速やかに仏縁を得てゆくことを往生という往きて生まれると書くが往きて生きるとも読めるだろう。」
「真言などとなえずに一向に念仏しないといけないという宗派もありますが?」
「まさに本願深く故そのような妨げは思うに及ばず。
そのように様々に思うことをせぬことこそ一向というのだ。
親鸞上人の言われたいずれの行も及び難き身は、ましてや常人にはさらにあたりまえのこと。
だがその行をすることによってはじめてそれは思うことだ。
そのおのが修行も頼みとせず最後に放下することは大事だ。
それができれば何でも同じ。念仏ならぬ題目でも同じだ。
もっとも、死んでもお前にはまだやってもらうことがある。いそいそ極楽などにはいくまいぞ。」