私は昔、信者さんの先輩と四国遍路に出た。
歩いて回るわけだが、ある宿で声を掛けられた。
「偉いですね。歩きで廻るのすか?何か特別な願があるのですか?」
「自分のためじゃありません。自分のためならこんな大変な行はしないんです。すべて人のためです。」とすかさずに先輩は語った。
宿の人は「へえ・・・それは、それは素晴らしいですね‼」と大いに感じ入っていた。
わたしには初耳だった。まあ、言わないだけで事情は「そうなのかもしれないな」と思わなくはないが。
そして、そのついでの様に「あなたもそうですか?」と聞いてきた。
「いいえ、私は自分の修行で来ています。願もなければ人様のためでもありません。」
とキッパリいった。相手は当惑して少しひいていた。
お四国では「天下泰平・万民快楽」と言いますが、一切衆生に回向するのは仏道のテーゼだが、私は特定の誰かのためにはそうした行をしようとは思わない。
今でも全く意見は変わらない。
ただし、行を重ねて人様もおがめるようになれば人の祈願もできよう。
そのためなら難行も苦行もしようが、ま、でもそれも言ってみればそれは自分のためということに尽きる。
ハッキリ、言って誰かのために修行しても、その人自らが強く頼んできたわけもないなら何も功徳はないのではないかとさえ思っている。
修行の果を受け取るのは自分だけである。そこは祈願祈祷と違う。
願望があれば本人が順礼すればいいだけだと思う。
寝たきりの病人とか、巡礼が無理な高齢者でない以上そうすればいいだろう。
別にバスだっていい。自分で行くべきだと思う。
誰かがかわりに徒歩で歩くよりそのほうがはるかに功徳を積む、いいことだと思っている。
第一、個々のために代行修行などしている暇もなければ気持ちもない。
江戸時代の代参家業の願人坊主ではないのだから。