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毘沙門天は日に三度有り余る宝物を焼くという

信仰は幸せになるためにするんじゃないのですか?という質問。

まあ、間違いではないが、私は究極、信仰は幸せを見つけるためにするものだと思う。

 

だが、幸せが人並みはずれた経済力や能力、あるいは体力や美貌の中にあると考えるのならどうか?

その幸せはごく限られた人だけのものだろう。

 

それらは神仏の恵みによるものではなく自分の精進のなかにこそあるのだ。

ほかの力はすべて助力だ。神仏も含めて。

当然人によりさまざまな違いはある。

だが、そういうかたちの結果の幸せを神仏に求めるのはハッキリ言って無理だと思っている。

 

むかし商売をされている方で開口一番「月に30万円くらいのおこづかいは自由につかえるようにしてほしいんです。」という要望の方もいた。

叶わないのか辞めて行ったが、当初から多分それはかなわないだろうな・・・と思った。

おそらく、もしも30万円が叶えば次は50万、50万叶えば100万というだろうね。

こういうとがっかりする方もあるだろうが神仏はそういうことにかかわりはないと思う。

金額の多寡を言うのではない。

 

眞に必要なら100万円でも一億円でも望んでいいと思う。実際に叶うこともあろう。

あなたが思うだけでなく神仏もそう思うならである。

だが、単なる欲願にこたえる理由が神仏にはないと思う。

 

供物をあげたり祈祷をしたりは「してあげる」ではない。させてもらうのだ。

譬えば毘沙門天は日に三度有り余る宝物を焼くという。

そういうお方になにをしてありがたらせようというのか。

なにをもって買収しようというのだろう。

 

神仏を動かすもの、それはただ真心の一事以外はない。

祈祷も供物をそれを表現することでしかない。

 




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