どこまでも聖天信仰は欲しいものを手に入れる手段とだけと考えては仏教にならず、いつしか尊天に見放される。「わからない奴め」と思われる。
それで頂いた御利益も根こそぎになることすらある。
わが師は聖天信仰は十一面観音信仰になり、最後には阿弥陀信仰になっていくべきと言われた。
これは別に聖天さま辞めて観音様にかえたり、観音様辞めて阿弥陀様にするのではない。
聖天信仰のままに欲得だけの賤しい心の聖天信仰から、いつしか観音信仰の心、自利ばかりではない化他の心、慈悲愛念の信仰と変わり、
そして最後は穢土の欲願を離れ滅罪生善の聖天信仰にかわっていくべきだという意味だと思います。
そうしてこそ聖天様もご出現の甲斐があったというものでしょう。
その意味では上願寺さんがしている滅罪生善の水歓喜供は大変意味があると思う。