羽田談
釈尊が最も大事にした徳だ。
「功徳を作ることスメール山のように高くとも、ひとたび瞋りにとらわれればすべてが失われる」といわれる。
いかに清廉でも精進堅固でも「堪忍」がない人は仏道修行は困難だ。
自分で正しいと思うからこそブチ切れるのだろうが、それは修行者の心ではない。
間違いをただすのにブチ切れる必要はない。
間違いをただすのにブチ切れるのは実は「拒否されることを恐れる恐怖」が根底にあるからだ。
普通に注意出来ないのは実は「恐怖」の故だ。
ゆえに威嚇する。
ブチ切れる人はブチ切れないと人が理解しないと誤解している。
だが結果的に人が理解するのは「こいつはすぐに切れやすい厄介な人間だ」ということだけだ。
責められたい人はいない。
意図はどうでも人は語気荒くきつく責められれば、行為を咎めるのでなく人格否定と思いやすいからだ。
ゆえにそう言う人は正しい人であってもついには孤独になる。
だがそれを反省する人は少ない。
「私はまちがっていない筈なのに!」…とさらなる恨みと怒りが湧きおこるくらいが関の山だ。
