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拝む人の心こそ

 

前にSNSをしていたころのお話、最近お仏像はへんてこなものも多い。そうした仏像の是非を語ったら「仏像はどんなものでも尊いのです。そうでしょう?」という反論があった。

前も数珠の使い方の話をしていたら、おなじ人間が横合いから「数珠の使いかたなんかより数珠の心こそ知りましょう」などとがピントはずれなことを言ってくる。

うるさいので話の趣旨が違うからとハッキリ言ったら折れたが、さいわいなんかでアカウントが外れて再度友だち申請してきたので断った。

ほかにも万事がそんな風なのでメンドーで嫌気がさしてきたのでSNSはやめた。

アカウントはあるがもう使うことはない。

 

仏像に話を戻すと、私はどんなものでも尊いなどとは露ほども思わない。

ただ売る気満々でできの悪いものを量産して売りつけても儲けるための仏像などは邪気さえはらんでいる。

そういうのは儀軌にもとずいていない素人が作っているからたいがい作りに間違いがある。

まず見て品がない。拝む気にならない。

 

たまにそういう仏像が廃棄されてくるがお祀りしないで発遣してお焚き上げする。

そんなみっともないものを仏像にしておく方が冒涜だと思う。

何もない方がマシだ。

断っておくが美術的に良いものが良いと言っているわけじゃない。

 

ハッキリ言うと尊いのは仏像そのものではない。

それはただの木材や金属の塊だろう。誰も拝む人がいないなら仏像にならない。

 

尊いのはそれを拝む人の心と拝むためこそ仏像をつくった人の心だ。

法華経に子供が地面に仏を描いたり泥で仏塔を作ることさえ尊いというのは、その心を尊ぶのだと思う。

そうした心の籠ったものは作りの是非に依らず何とも言えない暖かさとありがたさがある。

それこそが本当の仏像だ。

ただ仏像なら何でもありがたいというのは愚か者の偶像崇拝だ。

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