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如来大悲

一生懸命じたばたと生きているようだけど生かされてもいる。

その生かされているのをご縁という。

何も心配はいらぬ。

 

じたばたしなくてもよかろう。

じたばたしても無駄だから。

 

必死になって人生の意味を見つけることもいらない。

生かされているのだから。

そんなことあれこれ頭で考えて知ったように思うところで煩悩の一種でしかない。

本当に知ったことになるのかどうか?さえも知れない。

密教で言う戯論。戯れ言だ。

いずれにせよそんなのは本当は小さなことだ。

知ると知らないとともに生かされている。

それがむだにならないよう生きればいい。

 

私の生きる意味は?などと突き詰めて突き詰めるほど本質から離れる。

抑々「私」というのは人の持つ概念に過ぎない。

概念の枠を必死に握りしめても何もわからぬ。

 

 

命の灯は常に様々な縁の油が注がれて灯っているのだと思う。

如来大悲とはこのことだろう。

諸縁尽きればこの世の縁も尽きるだろう。

 

私のさせていただくご祈祷というもこの生かされているところを意識して祈ることにほかならない。

如来大悲にアクセスするだけだ。

私という個には何のマジカルな力もない。

祈願とはむしろその個がなくなる世界だ。

観音も聖天も如来大悲の姿だ。本質は同じだ。




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