むかし高校生のころ、漫画家になろうと思っていた時期があって、「漫画家入門」という本が出て狂喜して買て読んだ。
そのなかで今でも心に残る非常に有益なことが書いてあった。
「漫画がうまくなりたければまず好きな先生の絵をそっくりまねて漫画一冊写せ。」
これがそれだ。
だが真似なんか面白くない、そんなものが通用するか!個性がもっとも大事だろ!というのが多くの人が思うところかもしれない。
でもこの話にはまだ続きがあるのだ。
「そうやって真似まくっているうちに個性が出てくる。しまいには似ても似つかないものが生まれてくる。それが本当の個性になる。」というのだ。
これは諸芸 皆そうだ。
絵もそう。料理もそう。踊りや音楽もそうだろうと思う。
そして密教も同じだ。
「法水写瓶」と言ってそっくり同じ法を写すのがテーゼ。
「如法」と言う鉄の掟があって少しの工夫も許されない。
だが、その実践に明け暮れていればいつの間にか、他のものには追随できないその人だけの個性が出てくる。
それが法における個性だ。
初めからどうしようか、こうしてみようか・・・?などとカラーをつけるのはニセモノだ。密教で言うなら「越三昧耶罪」である。
そやって飾っても昔の夜店でうっていたカラー🐤みたいなもので、時間がたてば色は落ちて皆おなじようなお粗末極まるものにしかならない。
ヒヨコはいくら色を塗ってもヒヨコにすぎない。
まねることを嫌うものは何も学ばない。お粗末な現状の自分のままでいることしかない。
今の人は「まねる」を嫌うものが多い。、
はじめから小知、小才を誇り、ひけらかし優秀に見せたいのだろうが・・・・私に言わせれば愚かの極みだ。
それだけ自分は鼻持ちならぬ遠ざけるべき人間だと自分で言っているようなものだ。
ただ、黙って黙々と従うものこそ逸材だ。
これを措いては逸材になる要素はない。
初心者の分際で自分ならこうするなぞとほざくものは叱る気もしない。
「すごいね~!たいしたものだ」といってやる。