仏教の究極の救いは悟りしかない。
お釈迦様の時代の原始仏教では呪術的なことは禁止されていました。
それでも最低限コブラを避ける呪文などはとなえられていたようです。
1世紀頃に大乗仏教が登場するようになると世間のさまざまな悩みを観音や地蔵などの大菩薩に寄せる習慣ができました。大菩薩はその神力により人を利益する誓願を持っていますから皆その誓願に頼ったわけです。
さらに七世紀にヒンドゥーを換骨奪胎した仏教、密教になり四種法が成立し様々な祈願がなされるようになりましたが、他人に施す修法は多くは世間法です。つまり社会における経済生活や人間関係、健康などの祈願成就です。
これは仏菩薩の誓願を頼みとしてより深く祈る技法があるということで、そういった諸尊を他において阿闍梨自体がどうこうする力を振るうわけではないが、そういう世間的救いは可能です。
しかし、祈願で根本的な解脱をすることはできません。
自行と言って自分の修行のための行法もありますが、自行は自分でやるから自行なので人にしてもらうことはできません。どんなえらい方にでも秘儀をしてもらって悟ることなどないのです。
つまり究極の救いは自らが得なければ無理だということです。
阿弥陀の本願でさえ極楽には行けるが、そこで十地の修行を完成させるのは自分の修行なのです。
悟れるよう祈ってもらうというのありえないわけです。
某宗教で悟りが開けるようシャクティなんちゃらをしてもらうというのがあったが仏教で考えられない。
グルに頭頂チャクラをひらいてもらって悟りに達したというひとにもあったが・・・・お釈迦様のころからそういう思想はあったのだと思う。
生理的に何らかの変化はあるかもしれないがそれは悟りではないと考える。
自業自得は修行も同じだ。