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ゲシュタルト崩壊と刹那滅   ゲシュタルトアプローチ

今日も菅沼師のゲシュタルトアプローチがあります。後三回です。
 
行法の上で大変に勉強になるのに、新しい行者さんたちの多くがみずからの仏道修行に関係ないもの。自分にもわかり切っていることくらいの認識なのか。それは実に残念ですね。密教への疑問の答えがふんだんにある。
行法自体が心の技なのだから、その心を知ることが関係ないわけない。
長年行法をしてきた私にも毎回驚きの学びがあります。
 
まあ、縁なき衆生は度し難しですから、あえて勧めもしませんが。
 
 
先日はゲシュタルト崩壊のワークでした。
 
「ゲシュタルト崩壊とは、文字や図形などをちらっと見たときには認識できたのに、持続的に注視し続けることで全体的な形態の印象や認知が低下してしまう知覚現象です。認知心理学の分野の用語で、ドイツ語の「Gestalt(ゲシュタルト)」は「形態・姿」を意味します。
 
たとえば、同じ漢字をじっと見続けると、漢字としての形態的まとまりがなくなって各部分がバラバラに知覚されたり、その漢字が一体どんな漢字であったかわからなくなったりする現象がゲシュタルト崩壊です。
 
ゲシュタルト崩壊は、長時間パソコンの画面を眺めたり、テレビゲームを行ったりして生じる視覚的疲労とは異なるものだと考えられています。」
 
 
仏教的に言えば刹那滅に近い概念だと思う。
認識は生起しては滅ぶ。
求聞持法などはあえて嫌というほどこれを強いて認識の大崩壊によって根底からのコンバージョンを起そうという試みだろう。
 
実際、求聞持法などやれば頭が一時的におかしくなり、行法の終わりの方では季節に関わらず真っ赤なチョウチョが飛んできたり、儀軌には牛蘇加持(チーズのようなものをお供えして食します)の金属の器が熱感で持てなくなったりもするという。
 
※牛蘇加持はお釈迦様が八日間の座禅ののち、村娘スジャータの布施した乳粥を召しあがったことを象徴するものだろう。
 
顕教も同じで比叡山で90日間、お堂の中をぐるぐる回って間断なく念仏する常行三昧などすると同じように幻覚を見るという。
籠山比丘の礼拝行も同じだ。ほとけを見るまで続けられる。
なのでこれを「仏立三昧」という。
 
こうした々難行や荒行は頭がおかしくなるか、おかしくなるかならないかの際まで行くことが目論見なのだろう。
 
こうしたゲシュタルト崩壊的な行法をするには行者にそれなりの資質がないとダメだと思う。危険だと思う。
だれでもやればいいというものではない。
いわゆる難行や荒行というのはそういう構成になっている。
 
そういう行法もあれば、私のような凡僧でもできる十八道立ての密教行法などはゲシュタルト崩壊は起きない。
 
だからこうした密教行法は一つ一つの印を結んで長時間かけることでより深く入れるかと言えばそうはならないのである。
それはゲシュタルト崩壊が起きて行が滞るだけのことだ。だから、瞬間、瞬間で印真言を結誦して流していくのがいい。
 
流れ全体がゲシュタルト(部分の集合以上の意味を持つ存在)になっていることが大事なのだ。ここを見落としてはいけない。
 



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