仏教では貪瞋痴を戒める。
よりわけ腹を立ててはいけないという。不瞋恚戎だ。
だがそれは極めて難しい。
だが私のような徳の薄いものでも比較的だが腹を立てない工夫というか心得がある。
それは誤解を恐れずに言えば人に期待しないことだ。
言い方を変えれば人の誠は砂の中の金より得難いものと思うことだ。
ときに人は「あんな人だと思わなかった」と憎悪の焔を燃やし、「あんなに世話したのに裏切られた」と怒る。
そういう体験は色々してきたが今では「人はいざとなれば損得で何でもするのだ」と思っているのでそんなに驚かない。
「ああ、そう言う人だったのだね」と思うだけだ。
「結構、もろいというか弱い人だったんだ」も思う。
まあ、一つ利口になったわけだ。それもいいだろう。
逆に思わぬ人の誠に減れれば得難い寶に出会えたと喜べる。
意外でしょうがこうした気持ちで生きていると有難いと思うことが多いのだ。
愛染明王の香合仏が壊れてバラバラになった。
江戸時代の作行きの良いものだったが・・・
今朝早朝に当日手伝いに来ていた弟子から「自分がうっかり踏んでしまったのだ」と電話で言って来た。
だが踏んだその時は黙っていたのである。一週間前のことだ。
いいずらかったのだろう。
言わなきゃいいものを自責の念があったのか言ってきた。
黙っているのも自分のためなら、しゃべらずにいられないのも自分の為だ。
そこがわかっていればよい。
下に落ちていて踏んでしまったそうだ。
普通、下に落ちているとは思わないのはそうだろう。
会計のケースに入れておいたのだが何かの拍子にケースからすべり落ちたのだろう。まさか香合仏があると思わないだろうから・・・
まあ、これは私の管理ミスだ。
だからそれを落として人がうっかり踏んだことは半分は私の罪である。
だが、私としては黙っていることは踏んだこと自体よりはるかに許しがたい。
ハッキリ言えば踏んですぐ報告があれ残念とは思うが咎めるつもりはない。
余りに酷く破損したのでもう焚いてしまおうかと思ったが出入りの仏具屋に一応修復を頼んだ。
実に精巧なものなのでとても元の様なものにはならないだろう。
あまりに出来が悪ければ元の素晴らしい仏像にあまりに申し訳ないから、やはり供養の上、お焚き上げすることも考えている。
でもどちらにせよ、申し訳ないからなおしてからお焚き上げしようと思う。
破損したままお焚き上げは捨てたようで嫌だ。
別段、だからと言って何もこの人に対して責任を追及することはない。
その折に何食わぬ顔で「壊れていました」と言ったのを考えると気分はよくない。
「それが本当なら半分、修理費を弁償して」とは言ったが別に本当はどうでもよい。
したくないならしないでよいのだ。
それが嫌だからだまっていたのかもしれないし。
何も期待しないから一向構わない。
「怒ったところで過去はどうにもならない。」それが自分一人のことならそれで納められる。
ただし、他人様も巻き込めばそうはいかないが・・・
通常、人に怒りを憶えるということはそこに正邪があり、「人はこうあるべきもの」という思いがあるからだ。
社会を守るためにはそれは大事だ。
その想いが無いなら瞋りはないだろう。
もちろん、仏教は社会正義を否定はしていない。
だが個人においてどう生きるか。
腹を立てないことは即ち期待しないことだと思っている。
別に我慢するのではない。我慢でなく諦観である。
契約ごとでもない限り、人などどう変わるかわからない。
かくいう自分自身の心でさえどう変わるかわからないのに人のことなどいえたものはない。
現実の人というのは自分も含めてそんなにちゃんとした生き物ではない。
契約ごとでさえ場合によってはご都合次第で破棄されるのだ。
基本的に人間に期待することが多ければ瞋りは捨てられない。
内心、人に期待はできないという認識さえあれば人は許しやすいと思う。