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仏教の理想なきは法の器に非ず

きのう龍旦師の好きなある動画配信を見ていて顧客の話があった。

「客層が悪いのは自分の実力がないから」という話だった。

主客は相呼応する。

 

祈願道場も祈願主に仏道の理想がないなら来る人もただご利益ほしさに期待するだけの人間としか来ない。

そう言う人に信仰はない。

ハッキリ言って自分もないからだ。

信仰のない人には信仰のない人しか来ない。

ただの営業だ。自分がないのに人のことは言えない。

そう言う人は仏教の教えはおまけ位に想っているのだろうがそこは大間違いだ。

的を射るのに鉄砲を愛しても実弾がなければ意味はない。

法のかたちは鉄砲のようなもの、威力を発揮するの信仰という弾丸そのものだ。

 

 

仏教的に言えば自分の中に仏教の理想がないからだ。

そう言う人に法を授けても毒にしかならない。

だから密教の伝授を受けるレベルは拙寺ではみな教会をたてて布教を目指す者のみ。

祈願も所詮は布教なのだ。

小遣い稼ぎや趣味でやりたいなど問題外だ。

 

そこがわからない人に伝法など用はない。

そこはハッキリ線引きする。

ましてや、一般の人に教える秘法の持ち合わせなどない。

「何か、在家でもできる秘法みたいなものありませんか?」という問いもあるがそのようなものはない

法は法の何たるかを知る人のものだ。

一般人に教えても欲が逞しくエスカレートしていくだけで何の利益もない。

ただ受けるだけでは自分の福を使い果たしているのがわからないのだ。

何を教えても終いに逆さにしても何も出てこなくなる。

そうなるのがお定まり。

だからどんなに付き合いが長くても、そんなものは教えられない。

いや、付き合いが長い人は当然そのあたりは解っていると思う。

魔法みたいなものを教えているところと勘違いしては困る。

 

 

 




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