時宗開祖の一遍上人は御臨終の際に「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」といわれた。
これは何も念仏でなくてもいいと思う。
「一行一切行 一切行一行」と言われたのも一遍上人だ。
慈救呪でも南無観世音でもいいのだと私は思う。
勿論、念仏でもいいし、題目でもいいのだ。
仏教の三蔵は膨大だ。
学びは大事だ。
教行二輪だ。
だがそれらを全てを読んだからと言ってわかるとは限らない。
ますますわからなくなるかもしれぬ。
一切経読破とか、そういうことはできる人がすればいいだけと思う。
しかもそのわかるは知的にわかるだけで仏智ではない。
学者になるならともかく仏道修行者になるなら一切行一行でいいだろう。
どんなものを見聞きしてもそれを糧にする一行一切行もそういうことと思うがどうだろうか。学者になるのはなかなか頭もいるし難しいが、「一行の修行者」になるのは誰でも可能だ。
准胝独部法、宝篋印陀羅尼の読誦、十一面観音の一日100遍の念誦。
どれも独立している。
いくらやろうがそれはそれ、続きなどはない。自行なら愚直に一生涯やり切ればよい。
勘ちがいしている人はサッサとやれば次があると思っている。
次などない。