橋姫の名の起こりは異説として暴河に橋を架ける工事を無事に行えるよう、橋の長久を祈り、若い女性を人柱にしたとも言います。
橋を架けるのにそんなことが実際に行われたのかどうかは知らないですが、人身御供の考えはあった。
これはヤマトタケルが海難に遭ってその妻オトタチバナヒメが海に身を投じ、海神をなだめたという話にも見えるように日本におおむかしからあった考えです。
旧約聖書にもイサクの燔祭というものがあり、神はアブラハムに晩年にできた最愛の子イサクを生贄にせよと命じてその信仰を試す。(信仰を見届けた神はこれを許すのですが)
※イサクの代わりにアブラハムは雄羊を殺して生贄にしたというが、どちらにしても旧約の神は血肉を欲し絵う神であり、カインとアベルでも、作物をささげたカインの供物は受けたまわず生贄を捧げたアベルを愛したまうた。
このゆえに中東地域は常に血なまぐさい戦いが絶えないのかもしれない。
仏教が広まり、生き物を犠牲にすることが少なくなってこうした習慣は消えて行ったものと思う。
犠牲が無くてはいけないという考えは、信仰の別なく人類の潜在意識に深く巣くっているものと思います。
だから本当に必要なものを得るために命をささげる。大事なものを差し出す。犠牲が必要という考えは人間の心の中にある。代償の心理だ。
だが仏教はこれを否定します。
人間は切羽詰まると「命を差し出しますから祈願をかなえたまえ」という人もあるようだが虚しい響きでしかない。
魔物や怨霊でもないなら仏は勿論、神も人の命など欲していないのだ。
命でなくても何かをひき変えには無駄な発想だ。