祈願はきかれる。
おとといの浴油の結願にジャスト、人員募集していたある会社様に募集があった。
さすが聖天様だな・・・と思う。
念願は叶った形だが、…ただ調べるとこの人は凶方位から来ている。
なにかしらあるはずとみた。
はじめに出てきた募集人員はどうだろうかと相談受けた。
この人はダメだなと思った。まず転職しすぎている。もたないだろう。
じゃあ、今回もはずしてもっといい人を祈れば・・・・そうとばかりはいえない。
程度問題だがこういう結果もまた修行なのだ。
祈願の結果は祈願主の因縁による部分も大きい。
よそにあるのではないのだ。自分にある。
あの人はすごい御利益いただいたから私も同じにもらえるかというとそこは違う。
神様は平等ではないの?ハッキリ言って因縁にあわせて考えりゃ平等なのだ。
だが形は平等はあり得ない。因縁はみな人によって違うから。
聖天様も、諸尊も拝んでくれたから返礼にご利益をくれるわけじゃない。
祈願主の修行になにかしら必要なご利益が来るはずだ。
そこに必ず課題はついてくる。
顔ったり、叶ったりに見えても実はおなじ。
そこは我々に因縁がある以上はそうなのだ。それはどうにかならないのかって?
それは無理。まるきり因縁がないならまず地上に生まれていない。
手放しで喜ぶようなものが来たとしてもそれは表面的なお話。
人生「塞翁が馬」は一つの慧眼だが、良きにつけ悪しきにつけそこから何かを生み出すことこそ修行だ。
つまるところ、因縁という荒馬を乗りこなすがこの世の修行。
天理教祖の中山みき刀自は「難儀は節だ。節から芽が出る」といわれた。
これも味わうべき言葉だ。