親鸞聖人は人間というのは皆業に依るので虫一匹殺さまいと思っても結果として多くの人を殺してしまったり、千人の人間を殺さんと思っても結果独りも殺せないで終わることもあり、皆それらは業によるところであると言われた。
まことそのようであろう。
仏教の慈悲も等しくそこにある。
業は自ら作るとこるところだが、それは因果を知らぬからだ。
弘法大師の言うように変易生死の人にでもなければ「生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死んで死の終りに冥し」であるからだ。
故に金光明最勝王経に「於善悪人皆擁護」の語があり、観音経に罪あるものもかの観音の力を念ずれば「或囚禁枷鎖 手足被忸械 念彼観音力 釈然得解脱」とも説かれている。
この業の観念に立脚すれば皆等しく業業流転のさまよい人であり、慈悲すべき存在である。なぜ自分がそうではないと言い切れようか。
だが大事なのはまずその気づきである。
それでもなお悪を厳しく罰し放置してはならないと思うのは、気づき無き者は自他を損ない、悪業をさらに積むことになるからだ。