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方法論としての信仰なき祈願

どういう訳か、うちは呪われてるという人の問い合わせが多い。

聞いてみると大概は根拠はなくただの思い込みの域にしか思わない。

 

今日の電話の人はかなり辛酸をなめてきたようだがお話からは全然呪われているとは思えない。

 

「きっと呪われてる!」

人は不都合が続くとそう思うのだろう。

 

ある行者さんに診てもらったら「ウ~ム…これは確かに呪いだ。」と言われて祈祷してもらったがはかばかしくないという。

それで私に?

はかばかしくないのは祈祷がどうこうでなく呪いという答えそのものが見当違いだからじゃないの。

思い込みもいいとこだ。

 そもそも祈願もその行者さんと私でも私のほうが勝れているかどうかもわからない。

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勿論、古来の呪い返しは相手を特定しないからしてもいいようなもんだが、これだけ酷い目にあって今は孤立無援だと言いながらどういうものか、この方信仰がない。

方法論を模索するだけで信仰がないのだ。

その方法の一つが呪詛返しなだけ。

「悪いがそういうものは拝みたくない、アンタ、ちゃんと信仰もちなさい。

その方が先だわ、順序が違う。」といっておいた。

 

ほかの祈願でも信仰心のない人が良くなりたいだけの方法論として頼んでくる祈願はやりたくない。

気に入らない。

 

気に入らない理由は徒労とわかっているからだ。

そんなんでよくなるかいな。

無駄なことはしない主義だ。

僧侶は曲がりなりにも信仰の指導者で、頼まれれば何につけそのまま祈る拝み屋さんのような存在ではない。

そこに教えがなくては駄目です。

ましてそんな納得いかない状況で呪詛の一掃返しみたいな大掛かりでメンドーなことするのはいくらもらおうがまっぴらだ。 

 

 




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