はじめに
シリーズが3作と続き設定が続々と明らかになっていく中で、所謂「考察」的な楽しみはプレイヤー間で存分に行われていると思うので、物語の設定について考えたり感動を掘り下げるというよりは、
魔界戦記ディスガイア時代を含めた
日本一ソフトウェアの歴史の一本の枝葉として、シリーズの物語をより俯瞰的捉え直したいというのが本記事の主な目的であり、魔女シリーズから同社のゲームに触れたプレイヤーに、新しい視点を提供できれば幸いです
自由悪逆

かわいい
途中一度発売日を延期しながら (そして、まさか今後のシリーズ作品も全て延期するとは思わないまま) 発売された本作
「自由悪逆」をキャッチコピーとして標榜した本作には、発売前から既に
日本一ソフトウェアらしさがむんむんに漂っていました
噛んだガムを食わされる

よほどのマニアか犬畜生でなければ…
シリーズを振り返ってまず最初に印象的なのは、主人公百騎兵が「
メタリカが噛んでいたガムを食べさせられる」という一連のシーンです
シンプルに悪趣味なシーンであり、同時にヨモツヘグイ的なニュアンスも感じ取れる意味深さを持つこのシーンですが、視点を変えてみると、このシーンはある種の表明のように感じます
というのも、
ディスガイアには「ふつうのガム」という回復アイテムを使用すると「かんだガム」となり再使用できる というちょっとした小ネタがあるためです
ゲームシステムの仕様上、
ディスガイアシリーズにおいてキャ
ラクターに回復アイテムを使うことは滅多にないためそこまでメジャーなネタではないものの、慣れないプレイヤーはHPの減った味方ユニットにかんだガムを食べさせることになります
実際中学生だった当時の私は何度かラハールに噛んだガムを食べさせていました
戦闘中の回復アイテムであり特にキャ
ラクターから言及されることもないため、あくまでアイテムを使ったHPの回復でしかないものの、
ラハールが戦闘中に誰かが噛んだガムを食わされるというのは中々シュールというか想像もつかない絵です
魔女と百騎兵の冒頭のシーンはまさにその「誰かが噛んだガムを食わされる」という現象をイベント上、具体的な形でプレイヤーに体験させます
※1
そして自我を得た百騎兵(つまりプレイヤー)は「セルフ
アサーション」のシステムで意思表明を迫られることになるのですが
これはある種、
ディスガイアの持っていたおバカなネタ性をリアリティラインの引き上げによって悪趣味にした演出であり、本記事で言いたいことは要するに、
ここで表明される「リアリティラインを引き上げた陰湿なディスガイア」という性質が、本作およびシリーズに通底していると捉え直すことができるという話です
友達がいない主人公
ディスガイアでは愛を否定していたラハールがフロンと出会い、
ファントム・ブレイブでは悪霊憑きとして忌み嫌われていたマローネが初めての友達カスティルと出会い、また同様に3の「マオ」や、4の「エミーゼル」などにも似たような形式を当てはめることができるでしょう
※2
新川社長が直々にシナリオを書いていた時代の
日本一ソフトウェアのゲームは全体的に童話的・神話的な物語であり、心温まる優しい味わいがありました。絵本のような語りが印象的です。
「破天荒で滅茶苦茶で常識破り」というようなコンセプトで発売された初代
ディスガイアでさえ、物語はハートフルなボーイ・ミーツ・ガールであり、私は今でもこの話が大好きです
ワタシに友達なんかいらない
いや、いないだけだ
でも、あいつなら
すきなことを言える
あいつといると楽しい
遠慮なく言ってくれる
生きていてほしい
あたたかくなる
本作の
メタリカも同様に、家に引き籠もり友達がいないまま一人で生きてきた中で、初めて自分と対等の立場で関わってくれる
ビスコと出会います
しかし、描かれ方はよりリアルで陰湿なものになっています
友達がいないまま孤独に生きてきたキャ
ラクターとしての
メタリカは、これまでのラハール等と比較してより陰湿で世間知らずな部分を執拗に描写されました
傍若
無人を気取る
メタリカの社会的な評価は「臭い沼の魔女」であり、なまじ力がある分それを振るって他人に迷惑をかけ、他人に認めてほしくてしょうがないのに誤った手段しか取れず、夜会のメンバーに騙され泣きながら枕を濡らし、陰湿な復讐で夜会を破壊します
結果的に自分が正しいと思って行った行動が
裏目に出て
ビスコと決別することになり、投獄され、
ビスコは殺され、復讐も果たせぬまま殺されてその人生を終えます
ラハールやマオのような、
2000年以降の日本一ソフトウェアの大きなイメージ像としての「傍若無人で自己中心的な主人公」という造形を持ったこのキャ
ラクターは、しかし
当然のように社会から忌み嫌われ、より大きな力を持ったものにねじ伏せられます
これもまた同様に「リアリティラインを引き上げた陰湿な
ディスガイア」として読むことができるでしょう
しかし、
メタリカはラハールを原型としたキャ
ラクターではありますが、ラハールは母親の愛情によって支えられていたのに対し、
メタリカは第一章で自分の母親を…
こういったラハールと比較した時に現れる差を、そのまま
ディスガイアと
魔女と百騎兵の違いをミクロに捉えたものとして重ね合わせることができるでしょう
また主人公が「魔王 / 男性」ではなく「魔女 / 女性」であることにもシリーズの差別化がなされており、第二幕第4章で妊娠を示唆させたり、男性からの暴力として強姦を示唆したり、母娘の関係に焦点を当てるなど、本シリーズは(
ディスガイアとは異なり)女性の主人公を描くということに強く、かつ慎重に焦点を当てています。それはシリーズが続くとより顕著になっていった印象です。
(そんな中わずか4ヶ月前に発売された
ディスガイアD2でラハールが雑に女体化していたのもちょっとおもしろい)
死んだものを蘇らせる物語
ビスコは
メタリカの「初めての友達」として登場し、物語の終盤に死亡します
これもまた
ディスガイアのフロンの物語の再演として読むことができるでしょう
ディスガイアはマルチエンディング形式のゲームであり、特殊なプレイヤーでもない限り最初に見るエンディングは「ノーマルエンド」になるよう設計されています
大まかなエンディングの内容は以下
- ノーマルエンド: 花に変えられた≒死亡したフロンを、ラハールが自決することで蘇生する
- グッドエンド: 花に変えられたのはフロンの堕天の儀式の一貫であり、ラハールが自決する必要はないことが判明する
- バッドエンド: ラハールがラミントンを殺害してしまい、フロンが生き返らない
前述したように
ディスガイアを含めた当時の日本一ゲームは童話的・神話的であり、ノーマルエンドはラハールが自決することで(理由はよくわかりませんが)フロンが生き返ります
当時メディアミックスで製作されたアニメ版
ディスガイアでも同様の物語が展開し、
プリニーに転生したラハールが魔王城に現れる…といった展開で完結します
(主に作画を中心に批判されがちなアニ
メディスガイアですが、私はこの終わり方がかなり好きです)
と、こうして
ディスガイアの物語の終盤を振り返ると、魔女百の物語が味わい深くなってきたのではないでしょうか
大まかなあらすじとしてはほぼ同様に、
メタリカは死んだ
ビスコを蘇らせるために自決し、そしてまた
世界樹の種から…といった展開でしたが
しかし
ディスガイアと決定的に異なるのは「蘇生の代償の大きさ」にあります

トゥルー・エンド
リアリティラインを
ディスガイアから大きく引き上げた
魔女と百騎兵の世界において、蘇生という行為は不可能なものであり、そして強烈にタブー視されていました
ディスガイアではつまるところ、フロンは死亡したわけではなかった というのが物語のオチでしたが、
ビスコはバッチリ死んでいました
メタリカは
ビスコの死を確認し、プレイヤーは「トゥルーエンド」の実績を受け取ることになるという衝撃的な展開でしたが
ビスコを生き返らせるために活動していた
メタリカに再び百騎兵が起こされるところから、
魔女と百騎兵の物語はまた
一層気配の異なるものになります
「数多世界」だの「運命収斂」などといったSFファンタ
ジー的な専門用語に満ち溢れた、このシリーズの芯とも言える部分の片鱗をここで掠めることになり、わけのわからぬままプレイヤーは
メタリカの命運を見届けることとなります
最終的に多世界をあーだこーだしても
ビスコが生き返ることがなく、
メタリカはラハールと同じ運命をたどることとなりました
この行為は他のキャ
ラクターたちから再三否定されつづけ、挙げ句
ビスコ本人にも否定され、それでも
メタリカは
ビスコを生き返らせます
「
魔女と百騎兵」単体でこれを読むならば感動的な物語ですが、シリーズが展開するごとにプレイヤーはこの行為の罪深さを理解することになります
続く「ルフラン」でも「ガレリア」でも、蘇生を行おうとしたものは誰一人として救われませんし、こういった世界の欠片の再編成による運命の変更はなんかかなり危ないものとして取り扱われています ※4
「リアリティラインを引き上げた陰湿な
ディスガイア」として読む という楽しみに初めて気づいたのは、当時2周目をプレイしこのシーンを改めて見た時でした
ラハールは決意を胸にフロンを蘇らせることに成功したのに、
メタリカはむしろ
ビスコを蘇らせると決めてからが本編であり、そしてそこから途方もない努力を費やすことになる
「噛んだガム」を食べる意味を再考させる導入から始まった魔女百は、最終的に人を蘇らせる意味を再考させます
その結論が、Emi Evansによるありえないほど幸せに満ちた音楽を通じて「バッドエンド」のトロフィーの取得にあるとするならば
本作のディレクター泉達也氏が初代
ディスガイアにドッターとして参加し、後に初代のトゥルーエンドの先を描いたシリーズ後継の2,3ではなく
ノーマルエンドの続きを描いた「プリニー」をディレクションしていたということからも
※5、本作なりの
ディスガイアへのアンサーのようなものを感じとることもできるのではないでしょうか
(ラハールが
プリニーに転生した理由について、人間の血が半分混ざっているから、という設定を後付けしたのも「
プリニー」内のテキストによるものです)
余談ですが、こういった目線で魔女百を読むならば、終盤で短髪になりマフラーを巻いた
メタリカのデザインがラハールと重なって見えるような気もしてきます
(2024/07/22追記)
メタな目線で言えば、ラハールはフロンを救うために自決するわけですが、その後プレイヤーは「ラハールを救うために」2周目を開始する といえるわけです
(初代ディスガイアのトゥルーエンドの条件は「味方撃破数0でクリア」)
魔女と百騎兵及びシリーズには「プレイヤー」が明確におり、このゲームのストーリー体験はそのままディスガイアをプレイするユーザーのメタな体験を物語に落とし込んでいる と読むこともできるでしょう
偉そうな"オレ様"にコキ使われる体験
また、さらに余談ですが
魔女と百騎兵が発売する前、ネット上で既に上がっていた不満として「
メタリカが操作できない」というものがありました
本作において操作可能なキャ
ラクターは百騎兵というマスコットキャ
ラクターであり、
メタリカを操作することはできません(後のRevivalにおいて
メタリカ操作パートが追加された新規コンテンツが実装された)
これには様々な事情があったと思いますが、本作において操作キャ
ラクターが百騎兵であることに強いメタな意味が付随されていることは、シリーズファンなら共通の見解であると思います
しかしより俯瞰的に同社のゲームを振り返ると、この様式が「
ファントム・キングダム」に酷似していることに気づきます
両者に共通するのは
「物語の主人公である傍若無人で自己中心的なオレ様」に「プレイヤーであるあなた自身」がやたら雑にコキ使われるというゲーム体験です
キングダムにおける主人公ゼタもまたラハールを意識して設計されたキャ
ラクターであり、傍若
無人で完全無敵でありながら、物語冒頭にとある事情によって力を失い「全知全能の書」という本になってしまいます

下僕となって主人の陰口を言えるゲーム
ディスガイアにおける「拠点」の役割を果たすのが主人公ゼタであり、プレイヤーは汎用のモブの一人となり、彼にコキ使われることになるのですが、
魔女と百騎兵に通じるものを感じとることもできるのではないでしょうか
また、「本」となった主人公にコキ使われながら汎用キャ
ラクターを育成しステージをクリアする という遊びはまさに「ルフラン」であり、そこにも繋がりのようなものを感じられると思います
そして、
ファントム・キングダムにある「建物制圧」のギミックは明らかに「魔女制圧」のオマージュ元であり、そういった意味でも、魔女シリーズのファンが当時の
日本一ソフトウェアの作品をプレイするのは面白いでしょう
現在ほとんどのゲームがSteamで配信されているので、一度手にとってみるのを推奨します
シリーズ作にゲスト登場する前作主人公
私は個人的に、シリーズの中で最も完成度が高いのは「ルフラン」だと思っているのですが
(高いゲーム性、美しいグラフィック、統制されたシナリオ、前作と共補完的な設計、システムとシナリオのリンク)
本記事の観点において改めて語ることは少ないかと思われます ※6
本記事における観点で続けて
メタリカの話をするならば、本作に登場する「黒ノ旅人」にもまた、より意味を見出すことができるでしょう
ディスガイアシリーズにおいて大人気主人公であった初代トリオ「ラハール」「エトナ」「フロン」は、その後のシリーズ作にも頻繁に顔を出します
ディスガイアは作品ごとに世界が異なるため、単に続投というよりはファンサービスの趣が強いです
時にはオマケキャ
ラクターとして、時には本編に強めに関わる存在として、常にこの3人はシリーズのみならずあらゆる
日本一ソフトウェアの作品内で目にすることになります
黒ノ旅人は、
メタリカが
ビスコを生き返らせるためにあらゆる並行世界・別世界を旅して世界自体の欠片を収拾していた道中の姿だと思えますが、これもまた「ファンサービスで各IPにゲスト参戦しまくるラハール」の、魔女シリーズなりの再現だったのではないでしょうか
これまでの話と比べてこの項はかなり妄想めいていますが、それを言い出すとキリがありません
私にはこう読めますが、どうでしょうか
視点を変えて読むこと
私がこのように隣接した作品として他日本一ゲームと魔女シリーズを読むのは、そもそも魔女シリーズ自体がそういったシリーズ間の物語を描いているからでもあります
魔女と百騎兵でプレイヤーに用意された一発逆転のスキル「カオス・リバレーション」は、ルフランのラスボスであるバーバ・オオガラスの最後の攻撃として再び目撃することになります
しかし魔女百の時に体験したものとは異なり、今度は
敵が、ARPGではなくDRPGの舞台で、全く異なる実装で同じ技を使用してくる
同様に、この「魔小箱」もまた、
魔女と百騎兵においては百騎兵と同サイズの回収アイテムとして実装されていたものの、「ルフラン」においては敵ユニットとして全く異なる実装で現れる
そして同様に、誰かを生き返らせるための物語を「
魔女と百騎兵」と「ルフラン」では全く異なる視点から描く(そして続く「ガレリア」でも)
こういった、視点の角度を変えて同じモノや同じ運命を描き直し続けるというのが本シリーズの特徴であり、「再考」というのはまさに本シリーズそのものに言えることです 「再解釈」と言ってもいいでしょう
同様にシリーズそれ自体も、
ディスガイアを再考・再解釈したものとして捉えることができる と考えました
オレさまは一生、愛など認めない
言ってしまえば
魔女と百騎兵はディスガイアの「焼き直し」に近いものであり、ルフランはその先の新たな物語を描いたという読み方もできるかと思います
そうして次に描かれるのはどういった物語なのか?と期待していた私が、「ガレリア」をプレイした時の複雑な心境を想像できるでしょうか?

呼吸が荒くなってきた
「ガレリア」は、本記事の観点から見ると異常なまでに興味深いものであり、また、これまで半分は妄想として捉えていた私の想像に杭を打たれたようなゲームでした
同時に本作は、物語が先走りすぎており、前作までの設定を知らないプレイヤーを置き去りにし、更にゲームは未完成状態という、とてつもないゲームだったことも印象的です
シリーズへの愛と、実際に物語が非常に胸を打つ内容であったが故に、本作には非常に複雑な、ある種ネガティブな思いもあります
本記事の観点から言えば、まさに本作は
「更に」リアリティラインを引き上げ「更に」陰湿になったディスガイアとして読むことができます
ユリィカを見ていると少なくともフロンを、ナチルを見ていると少なくとも
メタリカを想起させられるのはデザインによる意図的なものように思えます
ユリィカはその原型を
ビスコを通してフロンに、ナチルはその原型を
メタリカを通してラハールに持ちます
それほど直接的な結びつきではないとは思いますが
少なくとも「友達が一人もいない孤独な主人公が、出会いによって変わっていく」という大筋は一致しており、そして「片方が死ぬ」という避けられない行程を歩みます
本作ならではの新しい視点は、むしろ"ラハール側"ではなく"フロン側"を真剣に描いている点にあると言えるでしょう
これまで(
ディスガイアの
ライトノベルシリーズを除いて
※7)フロンの個人的な家庭環境・友人関係は描かれず、また同様に
ビスコに関しても魔女百本編ではあまりフォーカスされていません(盲いた魔女、ヘルゼーエンなどの示唆はありますが)
今作は改めてその視点を描き、そしてそれは「リアリティラインが高く」「陰湿」です
フロンもキャ
ラクターとして、「頭がお花畑」「愛マニア」みたいな描かれ方をしていたキャ
ラクターですが、ユリィカのそれは、そういったものとは描き方の視点が大きく異なります
萌え要素やキャ
ラクター付けとしてではなく明確に、「頭の弱い子」として描かれるユリィカ周りの描写は陰湿というよりはもはや悪趣味であり、それ故に彼女の「真っ直ぐな思い」も違った視点から(より悪趣味な観点で)見ることができます
ナチルに関しても同様に、「魔王城の棺桶で100年眠っていた魔王の息子」から、「森と沼の奥にある怪しい家に引きこもる魔女」から、「学校に行かず引きこもって自慰にふける少女」と、どんどんと現実味を帯びた存在へと描写の方向性が変わっています
そして変わらず、この"ラハール側"として見ることのできるナチルは、母からの一心の愛情を受けていました
その愛情を素直に受け取れないという点はラハールや
メタリカを重ねて見ることができますが、彼女の事情はより複雑で、状況はより辛いものです
もはや原型を留めないこの2者ですが、しかし原型と同様の物語を歩むことになりました
そしてまた運命の否定から物語が再始動する
自シリーズ作を再解釈しているが故に、生物濃縮的な異様さを持つこの「ガレリア」ですが
この台詞にはそういった後継としてのニュアンスが多く含まれていると思います
そこに何を感じればいいのかは正直わかりませんが… ※8
本作はユリィカとナチルをダブル主人公として描くことで、双方の視点を掘り下げ、最後には「ユリィカがナチルを救うために」グラン・カテドラルへ向かいます
そしてそれは作中世界自体に否定され、手放しに幸せであったと言い切れる最後ではありませんでした
また、「母親の愛」を描いた作品として両作を見比べると、ツェツィーリアも非常に面白いキャ
ラクターだったと思います
※9
この観点で本シリーズを再考するのはとてもおもしろいです
そして次回作へ?
こうして魔女シリーズが凄まじい勢いで狭く深い特殊な領域に物語を移動していく中、大元の
ディスガイアシリーズは「4」以降、明確にストーリーの目指す方向性が変わり、あちらはあちらでまた異なる「
ディスガイア」を展開しています
※10

もう7作目ですってよ…
しかし、自分が2000年~2010年前後の
日本一ソフトウェアの作品に感じていたバカバカしさや愛おしさは、どちらかというと「魔女」の方に感じていました
ストーリーを主軸にシリーズ同士の繋がりを提示した本記事ではありますが、
魔女百の武器にランダムで付く二つ名に入れているちょっとした小ネタや、拠点で話しかける
NPCが章ごとに台詞を変える仕様、またルフランにおける汎用キャ
ラクターの育成であったり、そもそものストーリーのテキスト自体のギャグ感など、節々に「魔女シリーズ」には強く「当時の日本一らしさ」の継承を感じることができました
※11
しかし、フリーとなりXで
Instagramみたいな
ハッシュタグをつけながらひたすらELDEN RINGに興じる氏のヘッダーには「26 Works」とあり、相変わらずやる気満々ということでいいのかな?と期待が高まります 次回作の発表が待ち遠しいですね
注釈
※1 言い換えるならば、「ディスガイアで行われた数々の出来事を、これからこの解像度でやっていきます」という宣言とも取れるわけです。初代ディスガイアにおけるラハールの長い眠り、「かんだガム」、リインカーネーション、「力ずくで可決する」、裏切り者、天使との出会い、母親との別れ、愛するものの死と蘇生、それらが再びこの解像度でもって表現されています
また、「ガレリア」における「エンディングにしたい」という魔女嘆願なども、ディスガイアの暗黒議会における強制EDのオマージュであり(というか魔女嘆願が暗黒議会なんですが)

強制的にEDを流し2周目をプレイすることに、物語設定で意味づけを行う というのも本シリーズにおけるリスペクトの形の一つであると見ています (これを、当時の日本一ソフトウェアが持っていた「お客様に喜んでもらえるおバカなサービスを全力でやる」の究極に捻れた解答であると見ることは…)
また、魔王や悪魔といった対立する存在ありきのモチーフではなく、魔女という単体で成立するモチーフをテーマとして掲げているため、様々な種族の対立や和解を描くディスガイアシリーズと異なり、基本的に魔女シリーズは「魔女」の物語として描かれるというのもポイントです
※2 ある意味で、ラハールという「オレ様至上主義のクソガキ」は当時の日本一ソフトウェアの「発明」であり、以降の作品のキャラクターはおおよそラハールを基軸に捉えることができます。
2は「ロザリンド」の物語として見た時、同様の形式が見て取れます
3の「マオ」はシリーズにおけるラハールの再演と取れる要素が大きく、アルマースとの出会いから死別、父親越えを目指すエンディングなど、似た部分が多いですね
4以降、ディスガイアのシナリオは大きく変化した印象です。本記事のような視点で「ヴァルバトーゼ」や「エミーゼル」を読むのも面白いかと思われます。また、ヴァルバトーゼはラハール以降の新しい日本一ソフトウェアの主人公像を打ち出し、後の「5」や「7」などにキャラクターとしての遺伝子を垣間見ることができます
また、自分はディスガイア以降の日本一ソフトウェアファンであり、「マール王国の人形姫」などディスガイア以前の作品に関しての知識はフワッとしています。ラハールの更に原型のようなベースデザインが存在したかどうかは確認しておりません
※3 完全に無関係な滅茶苦茶な与太話で申し訳ないのですが、「主人に対して失礼すぎる骸骨の執事」や「傍若無人でワガママな魔王」という造形は、PS2で発売された「ボクと魔王」に酷似しています
※4 最新作をプレイすればするほど、キャラが総出でメタリカ叩きしまくっていて苦笑いするしかない
※5 ディスガイアシリーズでは、本記事でも述べている通り、おそらく「トゥルーエンド」以降の世界を描いているのに対し、初代スピンオフ作品は基本的に「ノーマルエンド」以降の世界、つまり「ラハールが死んだ後」を描いています。
「ディスガイアインフィニット」「プリニー」などがそれにあたりますが、初代の設定の深堀りに対して慎重かつ丁寧でありながらかなりバカバカしくて面白いため、個人的にも思い入れの深い作品群です

天使の仮免を取るフロン
※6 ルフラン市にいる警備員のデザインがプリニーに少し似ている みたいな小ネタめいたものが一応ありますが、あまり断言できるレベルのものでもないかと思い割愛しています

煉獄で罪を精算しつづける街の警備員が、地獄で罪を償いつづけるプリニーに似たデザインというのは、なにかの符号を感じて楽しくなってもいいポイントかもしれませんね
また、「物語の道中にバッドエンドが幾つも存在し、それらを経験しては時間を逆行して修正し続ける」というルカの体験は、初代ディスガイアのシナリオ設計にも通じるものを感じられるかもしれません。ディスガイアは、ボス戦で敗北、味方撃破数が一定数を超える、などの条件によって道中にバッドエンドが幾つも用意されていました。
※7 ディスガイアのファンコミュニティで語られているところを一切見たことがない、神代創氏によるライトノベルシリーズ

かわいい
フロンの妹「オゾン」や、ラハールの叔父叔母などといった多種多様なラノベオリジナルキャラクターが登場し、なかなかに愉快で好きなシリーズですが、ゲーム側への逆輸入は一切行われませんでした。完全に別世界として独立しています
シリーズ史から若干忘れられかけている印象ですが、超肉先生による美麗な挿絵も魅力的な作品群です。個人的には露骨にCP描写っぽいのがちょっと苦手ではありましたが
※8 いまだにどう捉えればよいのか分かっていません。物語的にも、ゲーム的にも
あくまで余談ですが、ゲームをプレイする1ユーザーとして、ガレリアには否定的な立場です。物語が美しかったからという理由でゲーム性の欠如を無視することはできません。明らかにナチル編から力尽きかけています。ガレリアは明らかにゲームとして未完成であり、しかもその「完成しなかったツケ」をプレイヤーに3000階層以上のダンジョンを潜らせる形で精算させるなど、未だに怒りさえある作品です。
ユーザーとして、魔女製作チームには「ゲームは作品ではなく商品である」というスローガンを抱えていた日本一ソフトウェアにおける悪魔のようなディレクターという印象を抱いています。しかし同様に、もう私が日本一ソフトウェアの新作に「らしさ」を感じるのは本シリーズのみであるあったことも、色々と考えさせられるポイントです。
※9 ディスガイアシリーズの主人公は少年や青年であり、父親がメインテーマとして存在することが常でした。この点でも、本シリーズは女性を描くことにディスガイアとの差別化を図っているように見えます
※10 果たして本当に「4」以降なのか?という疑問には様々な解釈があるかと思われます
しかしシリーズのシナリオが目指す方向性が4前後から明確に変わった実感はあり、製作スタッフの入れ替わりを感じました。
※11 「ゲーム本編」と「向かい合ったバストアップイラストによる会話シーン」を交互にゲームが進行していくスタイルを徹底的に維持するスタンス、スチルイラストの枚数を絞ったイベント進行、エンディング分岐を活かした物語、といったストーリーの演出に関する部分には、特に「(当時の)日本一ソフトウェアらしさ / ディスガイアらしさ」に対するこだわりを感じています。
魔女と百騎兵のみに絞れば、参加されている声優陣にすら当時の日本一お馴染みの声がありました
しかし3作目にて、このバストアップ会話の画面構成を逆手に用いた首吊りシーンが登場した時には、結構「お前さぁ…」みたいな感情になったのを覚えています。


またルフラン・ガレリアにおけるダンジョン内敵ユニットの2Dアートの異様な完成度には、1~3までの「世界樹の迷宮」などへのリスペクトも感じました
補遺
※ 私は本シリーズを魔女と百騎兵発売当時から追っていますが、「ディスガイアRPG」のイベントで泉達也氏が描き下ろしたというシナリオは確認できてません
※ 本記事で一切登場しない「魔女と百騎兵2」について
ゲームにおいて次回作を新規ディレクターが引き継ぐというのは珍しいことではなく、同様にそれがうまくいかないケースも珍しいことではありません
3作も魔女ゲーが出た今となっては、個人の作家性にここまで依存したゲーム作品の続編の引き継ぎというのは大変難易度の高いものであっただろうにも関わらず、なんとかゲームをギリギリ成立させ、シナリオ上でシリーズと無関係な立場を取った「2」については、そのディレクションへの敬意故に本記事ではシリーズ作品としてカウントしておりません
本記事投稿後、Xにて指摘されるまで完全に忘れていました
両シリーズを語り直す上では非常に大きい事かと思われますが、個人的には「5」に対して「複数人で個別にキャラクターシナリオ製作をした結果ぐちゃぐちゃになったのかな」以上の感想を持ちません。
該当するであろう箇所に泉氏らしさを感じることはできなくもないんですが、本記事はあくまで「日本一ソフトウェア作品として見る魔女シリーズ」を再考する目的で書かれており、泉氏の個人的な物語的趣向を明らかにしようとするものではありません。したがって、改めて語る内容でもないと考え、本記事では割愛させていただいております。
※ 記事本文では省略しましたが
「…きろ…」「起きろ!百騎兵!」
といったような、「寝ているところを起こされる」演出を「魔女」では物語導入や展開の中で頻繁に使用しますが、同様に「ディスガイア」もまた、眠るラハールがエトナに強引に起こされるシーンから開始します
特に「ガレリア」はこの演出が比較的頻繁になされていた印象です