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1986年、ヤクルトが突然プロ野球労組を脱退した理由。尾花高夫が今だから明かす“ヤクルトならではの事情” (木村元彦, 集英社オンライン)

 レバ子氏のXより。といっても今回は「減税」も「財政再建」も「民主集中制」も関係ない。プロ野球の話。

 

 

 「大砲」は「大鵬」のtypoだが、私の家は中部地方出身の父がドラゴンズではなく読売の大ファンで、相撲は大鵬だった。もっとも大鵬がアンチ読売だったことはよく知られている。下記引用文には弊ブログのNGワードが含まれているが、引用文だから止むを得ない。

 

本人は自身もアンチ巨人で、裸一貫で横綱となった自分と一流選手を集めて結果を残した巨人のみならず、「大人の好きなものは大洋柏戸水割り」というフレーズもあってバカにされたような感じがしたため、このフレーズが大嫌いだったという。

 

リンク:大鵬幸喜 (たいほうこうき)とは【ピクシブ百科事典】

 

 本当に「大洋、柏戸、水割り」なんて言ったんだ。初めて知った。大阪出身の母は「阪神柏戸」ときて飲食物の名前が思い浮かばなくて困っていた。柏戸阪神村山実の大ファンだった。

 世の中には現代作曲家の武満徹(1930-1996)のように、西鉄ライオンズだった妻を阪神ファンにしてしまい、娘も阪神ファンになった例もあるが、父親が阪神ファンだった村上春樹が上京してヤクルトファンになった例もある。また岡山で阪神ヤクルト戦があるとスタンドの観客が阪神ファンばかりだったことに臍を曲げてヤクルトファンになったいしいひさいちの例もある。私は決して珍しい例ではない。

 レバ子氏は堀内恒夫の名前を挙げて、奴が「勝利しか学べることはないと言い切りました」と書いているが、この堀内こそ読売の歴代の投手の中で私がもっとも激しく嫌った人であって、堀内なんかONのおかげで200勝できただけで、実力は191勝に終わった松岡弘の足元にも及ばないと思っている。だから堀内が読売監督として結果を出せずにぶざまな成績に終わった時には大いに溜飲を下げた。堀内はその後、2010年の参院選自民党公認で立候補して落選したが、2013年に繰り上げ当選になって3年間参院議員を務めた。もちろん何もできなかった。堀内は2016年参院選にも二期目を狙って立候補したが再び落選し、今度は繰り上げ当選にもならなかった。

 しかし残念ながらスワローズには、フジ産経がバックについていたり、安倍晋三がファンだったりしたなどの後ろ暗いところがある。特に松園尚巳(1922-1994)がオーナーをやっていた頃は、オーナー自身が読売ファンだったために1978年のスワローズ優勝を喜ばなかったりして、アンチ読売の間でも評判が悪かった。当時、特に中日や広島のファンの間では「セ・リーグには自分のチームよりも読売の優勝を望む球団が2つある」として、阪神タイガースとともによく批判されていた。1973年に読売のV9を許した時の阪神は、マジック1で迎えた中日戦に、大の中日キラーだった上田二朗を出さずに、中日球場で3年間で1つも勝っていなかった江夏豊を先発させた上(これは事実)、フロントの人間がその江夏に「勝たなくても良い」と言った(これには江夏の証言しかない)という話があった。これは真偽が定かではない。

 なお、のちの2011年にナゴヤドームで中日が読売に負けた試合後に、坂井球団社長がガッツポーズをしたらしいという話が流れ、それに奮起した中日の選手たちが発奮してスワローズを逆転して優勝した出来事があった。これも、当の坂井社長(当時)が否定しているため真偽は不明だ。しかし私は、1973年の阪神フロントも2011年の中日フロントも、ともに優勝を望んでなかったのだろうと推測している。ただ、1973年の阪神はフロントの思い通りの結果になったのに、2011年の中日はそうはならなかった。そのことに腹が立つ。

 松園尚巳に話を戻すと、1986年にスワローズ選手会を労組から脱退させた一件がある。これも、当時から松園の差し金によるものだろうと推測されていたが、昨年秋にその通りだったことを示す記事が集英社オンラインのサイトに掲載された。この件もレバ子氏のXに取り上げられていたが、その集英社オンラインの記事で私の印象に強く残ったのが、スワローズ元投手の尾花高夫である。当時、ネット検索して記事にしようと思ったが時間に余裕がなかった。それを今回取り上げる。記事の著者は木村元彦氏。1962年愛知県生まれのノンフィクション作家である。

 

shueisha.online

 

1986年、ヤクルトが突然プロ野球労組を脱退した理由。尾花高夫が今だから明かす“ヤクルトならではの事情”

プロ野球界に労組をつくった男たち#7

木村 元彦

 

球団による“搾取”から脱却し、選手たちの権利を獲得するため、中畑清初代会長らの奮闘もあり、1984年に日本初のプロ野球選手会労組が設立された。だが、1986年の開幕直前にヤクルト選手会が突然、労組からの脱退を発表。いったい何があったのか。当時のエースで後に選手会長となる尾花高夫が語った。

 

「ヤクルトは球団と“おもてうら一体”」

 

それは、中畑清をリーダーとするプロ野球選手会が東京都労働委員会から労働組合としての認定を受けてから5か月後のことであった。

 

開幕を直前に控えた1986年4月、突然、ヤクルトの選手会がこれを脱退すると記者会見で宣言した。

 

三塁手としてレギュラーを張っていた角富士夫会長が「ヤクルトは球団と表裏一体のもので、集団の力を借りて交渉しなくても、われわれの求めるものは常識の線で満たされている」と脱会声明文を発表したのである。

 

けれど、「表裏一体(ひょうりいったい)」を「おもてうら一体」と読み上げるなど、当初から選手の意志ではなく、圧力をかけた親会社側が作成した文章ではないかと指摘されていた。いずれにせよ、12球団の足並みが切り崩されたのは、大きな痛手であった。

 

URL: https://shueisha.online/articles/-/251815

 

 この「おもてうら一体」は忘れようにも忘れられない。角富士夫が「言わされている」ことは誰の目にも明らかだったので、スワローズは散々馬鹿にされたものだ。おまけにこの年の開幕シリーズでヤクルトは読売に3連敗した。荒木大輔開幕投手になり、読売の開幕投手江川卓と互角に渡り合ったが荒木は終盤に崩れた。するとあっけなく3タテを食らった。結局この年のヤクルトは最下位に終わったが、読売との最終戦であのブロハードの逆転2ランによって読売を沈め、高野光が勝利投手、7回から3イニングを投げた荒木にセーブがついた。この年高野は読売戦4勝3敗で、この勝利から故障直前の1989年4月の4回戦まで、読売戦7連勝を記録した。また荒木も読売戦3勝4敗1セーブだった。荒木は翌年5月初めに後楽園で行われた読売戦で再び江川と投げ合って、今度は江川が終盤に崩れて荒木が完投勝利を挙げ、リベンジを果たした。しかし荒木も翌1988年春に故障した。さらに痛恨の極みだったのは、高野が2000年に自殺したことだ。高野が読売の投手だったらこんなことにはならなかったのにと強く思った。

 記事からの引用を続ける。

 

西井敏次事務局長(当時)は、板挟みになった角の苦悩を今でもよく覚えている。

「角とは同期でね。初台のステーキハウスでよくしんどさを語ってましたよ」

 

これより、数年間、ヤクルトを除いた11球団による構成で選手会労組は運営されていった。

 

大きな転機になったのは、1988年、エースピッチャーとして活躍していた尾花高夫がヤクルトの選手会長に就任してからであった。中畑はこのタイミングを逃さなかった。

 

即座に連絡を取り、選手会労組への復帰を要請した。松岡弘の引退後、主戦投手としてスワローズのマウンドを守って来た右腕はポジティブな回答を返した。

「『必ず(選手会に)僕が戻しますから、キヨシさん、一年だけ待っててください』と言ってくれてね。あれはすごく助かった」(中畑清

 

この宣言は見事に実行され、1989年にヤクルト選手会プロ野球労組に復帰した。その後の球史を見るに、ここで尾花が立ち上がらず、脱退が常態化したままであったならば、ヤクルトにおける選手の権利主張の潮流は途絶え、古田敦也による1リーグ制への移行を阻止した2004年のスト決行も成されなかったのではないか。

 

当時の尾花は何を考え、組織の中でどう動いたのか? この質問に対して尾花はヤクルトスワローズというチームのカラーから語り始めた。

 

「まあ良く言えば、家族的なチームで、選手はオーナーにかわいがってもらうことで守られていたとは言えると思うんですけど、逆に言えば、鶴の一声で何でも決まってしまう。そういう体質であったというのは事実です」

 

URL: https://shueisha.online/articles/-/251815

 

 記事に書かれていないことで、重要なポイントが1つある。

 それは松園尚巳が1988年には既に病気に倒れていたことだ。このことは2016年に一度弊ブログに書いたことがある。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

ヤクルトが優勝を狙う球団経営に変わった最大の要因は、ずばり当時のオーナー・松園尚巳(1922-94)の病気だったと思います。Wikipediaを見ると、松園は1988年に病に倒れたとありますが、私の記憶が正しければ、松園が倒れたのはその前年の1987年です。この年にホーナーを獲得したのは、2年連続最下位に落ちたことに業を煮やしや松園が号令をかけたからで、実際松園がホーナーに会った事実をネットで確認しましたが、その後松園が病気で倒れ、公式の場に出てこられなくなったという記事を当時週刊誌で読んだ記憶があります。病名や病状は当時から報じられた記憶がありませんし、今回ネット検索をかけてもわかりませんが、1988年にヤクルト球団社長に就任した桑原潤(1930-2003)が公然とヤクルトの優勝を狙うような人事(野村克也の監督招聘など)をした事実から、松園の病状は相当重かったに違いないと当時から私は推測していました。なぜって、桑原球団社長は読売の優勝を望む松園オーナーの気持ちを忖度する必要がなかったってことですからね。だから、桑原氏が表に立つようになってからのヤクルトには大いに期待したものです。まさか野村監督があれほどの成功を収めるとまでは予想できませんでしたが。

 

URL: https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20161126/1480131918

 

 尾花高夫がスワローズ選手会の労組への復帰を実現できたのも、松園尚巳が病に倒れて影響力を行使できなくなった要因が強く関係していたことはほぼ確実だと思う。

 

スター選手の年俸を抑え、その分を二軍選手に

 

ヤクルトの初代オーナーであった松園尚巳はファミリー主義を打ち出し、対立を好まず、チーム年俸の平均化を説いていた。スター選手のアップ率を抑え、その分を二軍選手の最低年俸に回し、またトレードに対しても消極的な姿勢を貫いた。

 

選手はワンマンオーナーの下で一定のセーフティネットを享受していたと言えるが、それはプロとしての権利の担保というよりもタニマチ的な傘の下での不安定な加護であった。

 

尾花は続ける。

 

「ヤクルトが脱退した経緯については、当時、僕はまだ会長じゃなかったので、まあ、どういう圧力があって、そこに至ったのかまでは知らないです。

 

ただヤクルトの選手として、プロ野球選手会の集まりがあったときに社団法人のところまではみんな出席するのに労組の話になると途端にぞろぞろと退席するという事態が続いていて、やっぱりそこには疎外感がありました。12球団あるのに11球団の話し合いになってしまっていることに淋しさは感じてました」

 

尾花自身が大きな違和感を感じていた時期に選手会長になった。この頃の尾花はすでに押しも押されもしないヤクルト投手陣の柱となっていた。

 

チームがほぼ最下位を定位置としている時代に二桁勝利を上げ続けただけではなく、1985年からは連続して200イニングを超える投球回数を記録していた。大黒柱としての誇りと自覚がある中で中畑からの懇願のような復帰要請が来た。

 

尾花は社会人時代に苛烈な現業現場を経験していた。PL学園卒業後に進路として選んだ新日鉄堺という会社は、運動部に対して独特のポリシーがあった。

 

名門八幡製鉄所の流れを汲み中村祐造柳本晶一田中幹保らを輩出したバレー部の社員は事務職に配置されてデスクワークをしていたが、野球部は「鉄は国家なり」と謳う会社の根幹である製鉄現場の仕事をしっかりしてから、練習に行くという方針が貫かれていた。

 

尾花は高さ30メートルの煙突に登ってダストや水分の量、さらには高炉ガス・転炉ガスの濃度を測り、それが堺市の基準をオーバー超えていないかを確認する作業に就かされていた。

 

鉄鋼処理で燃えているガスを計るための機械は20キロもの重量があるが、それをかついで梯子を上り、設置して弁を開けて1時間びっしりと測るのである。

 

機械室と煙突の現場にいるスタッフはトランシーバーで連絡を取り合い、「今から高炉止めます」という連絡が入ると、管の中にノズルを突っ込んで、そこから1時間調べる。

 

濾紙に入ってるガスをフワッと吸っただけでも身体を壊す危険な仕事だった。だから転炉ガス・高炉ガスに行くときは、各班の一番の年長者が機械室で操作するという暗黙のルールがあった。

 

URL: https://shueisha.online/articles/-/251815?page=2

 

 松園尚巳は言ってみればヤクルトスワローズ球団において「組織内での上からの格差縮小」をやっていたわけだが、そんなものは仮に松園が健在であっても長続きするはずがなかった。1993年のオフにフリーエージェント制が逆指名制度とともに導入されたからだ。これらは選手会側からの要請でもあったが、選手間の格差はもちろん、球団間の格差も大きく拡大した。セ・リーグにおいてはスワローズの選手は同じ東京に本拠地を持つ読売に多く移籍し、西日本においては広島から阪神への移籍が目立つようになった。その他に、ベイスターズから中日への移籍も結構あったように思う(谷繁元信タイロン・ウッズ)。

 

尾花高夫をつくった「社会人時代の苦労」

 

若い尾花はその間、ずっと30メートル上空にいなくてはならない。煙突はめちゃくちゃ熱く、夏は脱水症状で気が遠くなりかけるが、冬などは逆に背中を寒風が突き抜けて体温調整に変調を来たした。

 

現場から帰社すると、電子顕微鏡に濾紙を乗せてグラム数を毎回調べて市役所に持っていく。

 

「一切、粉飾も改竄もしなかったですよ。それだけ真面目で危険な仕事でもあるので、朝、必ずミーティングをやるんですよ。班長が『二日酔いのやつはちゃんと申告しろ』って言うんです。万に一つも間違いがあってはいけないので。

 

だから、二日酔いのやつは正直に手を挙げて、『じゃあ、お前は今日は残り』となるんです。それだけ緊張していないといけない仕事でした」

 

尾花はその緊張から解放される間もなく、そこから練習に向かう毎日であった。しかもグラウンドでも自らに課したルールがあった。

 

午後7時には全体練習が終わると、その後に必ずグランドをひとりで30周するというものであった。これをこなすのに約一時間かかった。

 

さらに休みの日は社員寮から母校のPL学園まで走って通い、そこで後輩たち(二年生に米村明、一年生に西田真二、金石昭人ら)の練習を手伝ってまたランニングで帰ってくるということをルーティンにしていた。堺の寮から富田林のPL学園グランドは片道10キロはあったので、往復で20キロ。

 

黙々とこれらの日課をこなしている尾花の姿を大矢明彦のバックアップとして中出謙二捕手(後に南海)を視察に来たヤクルトのスカウト片岡宏雄が目にとめて、『これは広岡監督好みの選手だ』とドラフトにかけたのは、知られた話である。(新日鉄堺は当初、まだ会社に貢献して欲しいとプロに送ることを渋っていたが、最後は片岡の熱意に押し切られる形で円満退社となった。代わりに良い高校生がいると片岡が同社に獲得を薦めたのが、成城工業の野茂英雄であった)

 

えてして社業をおろそかにする社会人選手も少なくない中で、当時の尾花は24時間を目の前のタスクに向けて文字通り全力投球していた。その地道な努力により、社会常識や人と接する際の知見やふるまいが身についていったことは想像するに難くない。

 

労働の現場や行政とのやりとりを体験し、その上で野球への情熱を燃やしてきたかような人物がリーダーに就くと組織は前に進んで行く。(#8に続く)

 

取材・文/木村元彦

 

URL: https://shueisha.online/articles/-/251815?page=3

 

 以上の記事には下記の続篇がある。

 

shueisha.online

 

 実は、この続篇の方が私にはさらに興味深かったのだが、引用はしない。ただ、尾花高夫らスワローズの選手たち(その中には前述の高野光も含まれる)が動き始めた頃には、既に松園尚巳は病気のために実権を失っていたであろうことは押さえておく必要があるのではないか。スワローズ選手会の労組復帰は、おそらく松園尚巳の病気による再起不能という幸運にも助けられたのではないかと私は推測している。こう書くと怒られるかもしれないが、幸運としか言いようがないと思う。

 独裁権力者の病気もまた社会貢献である。誰かさんの死に似ているともいえる。だからといって凶行を許してはならないことはいうまでもないが。




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