国の特別史跡の「山上碑と山上古墳」を再訪した。











特別史跡 山上古墳(やまのうえこふん) 高崎市山名町2104番地
本古墳は、七世紀中葉(飛鳥時代)に築かれた円墳であり、岩野谷丘陵東南端を流れる柳沢川の北岸に所在する。南斜面を掘り込み、本丘陵に産する凝灰岩の切石を用いた横穴式石室を設け、直径15m、高さ5mの山寄せ式の墳丘を構築している。石室全長は現状で約6mだが、羨道前端が改変されている。玄室は長さ2.7m、幅1.8m、高さ1.7m、羨道は長さ3.3m以上、幅0.9m、高さ0.9mを計測する。玄室の奥壁はほぼ一石、側壁四石、天井二石から成り、精緻に構築される。古くに開口したため出土品は不詳であり、石室内には中世の石造物が置かれている。
傍らにある山上碑の碑文から推定すると、本古墳は高崎市南部に置かれた佐野三家(さのみやけ、屯倉)の経営に連なる山名地域の首長の墓として完成し、その後辛巳年(681年)に縁者の黒売刀自(くろめとじ)が追葬されるに際し、供養のため碑が建てられたとみられる。南東1kmの平野部にある山名伊勢塚古墳(前方後円墳・墳長65m・六世紀後半)に後続する首長墓だが、造墓地は丘陵部に移動し、終末期古墳特有の立地を志向している。
本古墳のように、被葬者の名や葬送制度が推定できる古墳は日本でもきわめて希少であるため、隣接の山上碑とともに国特別史跡に指定されている。
2015 年 3 月 高崎市教育委員会



特別史跡 山上碑及び古墳
所在地 高崎市山名町2104
指定年月日 (史跡)大正10(1921)年3月3日、(特別史跡)昭和29(1954)年3月20日
■銘文
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧■現代語訳
辛巳年(天武天皇10年=西曆681年)10月3日に記す。
佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にいかわのおみ)の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である(わたくし)長利僧(ちょうりのほうし)が、母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。
■解説
山上碑(やまのうえひ)は、輝石安山岩の自然石(高さ111cm)に五三字を刻んだもので、天武朝の681年に立てられた日本最古級の石碑である。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、名族であった母と自分の系譜を記して顕彰したものである。黒売刀自は、碑の傍らにある山上古墳に埋葬されたと考えられる。
碑文にある三家(=屯倉、みやけ)とは、六世紀〜七世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点である。佐野三家は高崎市南部の鳥川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって存在していたとみられ、健守命がその始祖に位置づけられている。
碑の造立者である長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、赤城山南麓の豪族と推定される新川臣(現桐生市 の新川か)の子孫の大児臣(現前橋市の大胡か)と結婚して生まれた子である。彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定される。この寺は、東国で最古級の寺院だったこ とが発掘調査で判明している。当時、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者だったと考えられる。 また、山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、碑の造立に際しては渡来人も深く関わったと推定される。
なお、碑に隣接する山上古墳は、精緻な切石積みの石室をもつ有力首長の墓であり、七世紀中頃の築造と考えられる。その築造時期は、山上碑(681年)よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられる(白石太一郎説)。
以上のようにわずか五三文字から、ヤマト政権と地方の支配制度、豪族間の婚姻関係や家族制度、地方仏教の浸透など多くのことを読み取ることが可能であり、山上碑が一級の古代史料であることを証明しているのである。
平成23年2月28日設置 高崎市教育委員会


高崎市指定史跡 来迎阿弥陀画像板碑
剣菱形の緑泥片岩の板碑の上半に、薄肉彫りで右斜めを向いた阿弥陀如来一尊を刻んでおり、下半には、中央に「建治四年正月 日」と紀年銘を刻み、その両側に一対の華瓶(二具足)を線刻している。二条線は剝落したのか明らかでない。高さ97.5cm、幅33cm、厚さ5cmの一般的な大きさである。
阿弥陀の顔は右斜め下にむかい、頭部には放射状の頭光(輪光)を線刻しており、印相は、右手をあげ左をたれた来迎印を結び、踏み割り蓮座の上に立っていて、信仰者の臨終にあたってこれを極楽浄土に迎える弥陀来迎の型式をとっている。銘文の建治四年は西暦1278年、鎌倉時代中期の造立である。
板碑は、鎌倉中期にあらわれ、戦国時代ころまでつくり続けられる。五輪塔などの墓標とあわせて建てられるので、年回などの際に建てられる現在の卒塔婆にあたる。一般的には、弥陀一尊や三尊(脇侍の観音・勢至両菩薩をともなう)を種子(梵字)で刻んでおり、浄土教のこの地方への流布を知ることができる。
高橋市教育委員会