東急田園都市線つきみ野駅の開業に伴う宅地開発「大和市北部第一土地区画整理事業」で発見された旧石器時代遺跡の月見野遺跡群を散策した。大和市教育委員会作成のパンフレット(2002/6/15)「月見野遺跡群 日本の旧石器時代研究を変えた遺跡の発見と調査」によれば、「昭和42年(1967)頃、つきみ野の地は、旧地形の形跡もわからない程の大規模な造成工事(南北約2km、東西約0.6km)が行われて」いて、「神奈川県在住の明治大学考古学専攻学生が中心となって作られた相模考古学研究会のメンバーによって昭和43年(1968)6〜7月に踏査が行われ、造成地区内で18の遺跡が発見されたもの」で、それまで単遺跡の小範囲の調査でしかなかった旧石器時代遺跡の発掘調査に対して、「つきみ野では点在する複数の遺跡を広範囲で調査することができる重要な場所」で、「点在する個々の調査データから、遺跡相互の関係をとらえて、群として旧石器時代のムラの様子を明らかにできうる可能性があると思われ」、「月見野遺跡群の調査によって、旧石器時代のムラのあり方や石器の変遷など、今日の旧石器時代研究の進むべく基礎データがそろい、方向性が見い出された」とのこと。


月見野遺跡群
現在、この周辺は見わたす限り家並みが連なっていますが、昭和30年代までは緩やかな起伏のある野原が広がっていました。東京急行電鉄株式会社による宅地造成工事が始まり、「相模野研究グループ」のメンバーによって現地から17箇所の旧石器時代の遺跡が発見され、将来この地域が「月見野」と呼ばれる予定であったため、月見野遺跡群と命名されました。そして、これらの遺跡のうち10箇所が明治大学考古学研究室の協力により、昭和43年・44年に発掘調査されました。
調査は当時としては、広く面的に、そして、深く進められ、狩人達が約2万年前から1万年間に残していった多量の遺物が発見されました。そして、石器群や遺跡の成り立ちについて時間を基軸として考察し、当時の生活を復元するという新たな研究方法が試みられ、それは学史上「月見野・野川以前と以後」と呼ばれるような、岩宿遺跡に始まる旧石器時代の 研究を大きく変える画期となる著名な遺跡群となりました。
月見野遺跡群第Ⅱ遺跡

月見野遺跡群第II遺跡
この場所は昭和42年に明治大学考古学研究室により編成された調査団が、東京急行電鉄株式会社の委託により、発掘調査を実施した旧石器時代の著名な遺跡です。
調査団により調査された10箇所の遺跡の中でも第IIIC遺跡と並び大規模な遺跡となりました。資料は関東ローム層(赤土層)の最上層である立川ロームのB. B1層から出土していて、文化層が重複していることがわかりました。
氷河時代の狩人達が残していった道具として、狩猟具にはナイフ形石器、尖頭器があり、加工具には削器・掻器・彫器があり、植物加工に用いられたと推定される磨石もあります。
また、こうした石の道具を製作するための材料である石核も発見されており、当時の石器装備を考えるうえで重要な資料です。また、調理・暖房用具である礫群(川原石を数十個集め火をたいた施設)も15箇所検出されていて、ムラの姿を復元するうえで良好な遺跡となっています。
上野遺跡

上野遺跡
この場所は学校建設に伴い昭和45年1月と4月に14日間の発掘調査が実施された遺跡にあたります。調査により奈良時代と平安時代の竪穴住居址が各1軒発見され、また、既に破壊されていたり道路下に大部分が存在したりする竪穴住居址3軒の存在も竈(かまど)により推定されました。
ここには第2号住居址と呼称した3.3×3.9m程の長方形の平面形態の竪穴住居址が地下に保存されています。日常什器である土師器坏(はじきつき)の完形品が2点・須恵器坏(すえきつき)の完形品2点・須恵器椀(すえきわん)1点・須恵器蓋(すえきふた)2点・土師器小型台付甕形(かめがた)土器1点・土器の小片多数が出土しました。出土した土器の形態分析から8世紀の終わりにこの住居の住人は生活し、使用していた土器を残したと推定されます。当時は律令制下の国郡制が成立していて、相模国の行政の中枢である国府は平安時代初期まで海老名市に置かれていました。この集落の人々の生活は政治や文化の面で強く影響を受けていたと推測されます。
月見野遺跡群上野遺跡第1・2地点

月見野遺跡群上野遺跡第1・2地点
この周辺はつきみ野住宅・つきみ野アネックス建設事業に先立ち、埋蔵文化財の発掘調査が昭和54年から57年にかけて行われ、旧石器・縄文・平安時代の重複遺跡であることかわかりました。
旧石器時代ではこの土地で約2万数千年前から8時期にわたり、厳しい自然環境の氷河期の中、狩人達が獲物を追い求めながらキャンプ生活をし、石器製作等を行っていました。彼らの使う狩猟具はナイフ形石器から尖頭器(せんとうき)、そして細石刃(さいせきじん)へと変化しました。寒冷な気候から温暖な気候へと振幅を繰り返しながら移行していく中で、細石刃を狩猟具としていた集団が、土器の焼成技術を獲得し、縄文時代の幕開けとなります。本遺跡からは日本最古に位置付けられる土器片が出土しています。これに引き続く資料として隆線文(りゅうせんもん)系土器群と石器群が得られており、2個体の資料が完形に復元されており、土器の発生期を考えるうえで貴重な資料となっています。
月見野遺跡群上野遺跡第3地点

月見野遺跡群上野遺跡第3地点
この遺跡は、昭和59(1984)年に実施された、つきみ野の大規模な宅地造成工事に伴う発掘調査によって発見されました。調査開始時には、工事によって既に関東ローム層の上部まで削平されていましたが、かろうじて旧石器時代の遺跡が確認されました。
この遺跡からは、狩猟具である尖頭器、切裁具(せっさいぐ)であるナイフ形石器や彫器(ちょうき)、加工具である錐(きり)といった石器が出土しており、暖房もしくは調理の跡と考えられる礫群(れきぐん)も発見されました。
発見された石器の中には、岩を打ち欠いた際に出る小さな破片が数多く含まれており、当時の人々がこの場所で石器を作っていたことがわかりました。また、出土した石器の材料には、大和市の周辺地域で採集される玄武岩(げんぶがん)や、 ら運ばれた黒曜石(こくようせき)が使われています。玄武岩製の尖頭器は、比較的大きいものから、中形、小形のものがあり、黒曜石製の尖頭器は比較的小形なものが多い です。上野遺跡第1地点の同時期の資料と照らし合わせたところ、石器の大きさや使用目的によって石材を使い分けていたことがわかりました。
相摸野第149遺跡

相模野第149遺跡
この遺跡は、明治大学の学生らで構成される相模考古学研究会により、昭和43年からおこなわれた分布調査で発見されました。昭和45年に同会により発掘調査がおこなわれ、旧石器時代と縄文時代草創期の遺跡がみつかりました。
関東ローム層(赤土)の中にある旧石器時代の地層からは石器が見つかっており、狩猟具として使われた細石刃、その素材である細石刃石核(せっかく)、そして加工具として使われた削器(さっき)などがありました。これらの石器は、関東地方南部から九州地方まで広がる製作技術で作られていたことがわかっています。
縄文時代草創期の地層からは、有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)や槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)という狩猟具として使われた石器と、削器・掻器という加工具として使われた石器が見つかっています。また、土器の破片も発見されており、動物の毛や植物の繊維を混ぜ込んだ特徴的な粘土で作られていることがわかっています。これらの資料は、日本で初めて土器が出現した時期の資料と考えられています。

大和市つる舞の里歴史資料館
