海老名市立郷土資料館の目の前の相摸国分寺跡を散策。

僧房跡



僧房跡 (そうぼうあと)
ここに、国分寺の僧が集団生活をしていた施設である僧房がありました。僧房は塔や金堂、講堂とともに奈良時代の寺院を構成するために必要な建物でした。1966年と1996年に行われた発掘調査により、東西81m以上の長大な建物で、東西9m、南北6.57mを1居住単位とし、9区画以上に仕切られていたことなどが確認されました。
柱穴を調べたところ、柱の下部を地中に埋める掘立柱建物から、柱を礎石の上に建てる礎石建物へ建て替えられたことも判明しました。柱は直径約30cmと推定され、柱が沈み込まないよう根元に石や瓦を置く礎板も見つかりました。さらに、掘りなおされた痕跡が確認されたもの、柱穴の中に焼けた瓦や土器が廃棄されたもの、焼けた土で埋め戻されたものが確認されました。
これらのことから、火災などによって2回の建て替えがあったものと考えられます。
見つかった僧房の遺構は、長く将来に伝えていくために埋め戻 し保存し、その上に僧房の規模や構造がわかるよう、壁や柱の位置を表示しています。
海老名市教育委員会 2019年2月
北方建物跡1

北方建物跡1 (ほっぽうたてものあと1)
ここは僧房の北側ですが、ここにも国分寺に関連する施設がありました。1966年に行われた発掘調査では、東西9m以上、南北6mで、南側に廂(ひさし)がある掘立柱建物であるとことがわかりました。二度にわたり建替えられ、相模国分寺跡の中軸線上にあることから、重要な役割を担った建物と推定されます。
海老名市教育委員会 2019年2月
金堂跡


塔跡




塔跡
ここは741(天平13)年の「国分寺建立詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」をうけて建てられた七重塔(しちじゅうのとう)の跡です。国分寺の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)が安置されていました。
1966(昭和41)年と1992(平成4)年に行った発掘調査で基壇(きだん、建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6m、高さは1.3mの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されています。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙(すいえん)の遺物が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。
創建時の基壇は、現在復元されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積)につくり替えられています。
石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、両方とも凝灰岩質の石です。
10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる礎石3個と新たな石4個を使って復原・補充しました。
基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇よりも約35cm低く復原しました。
海老名市
中門・回廊跡




中門・回廊跡 (ちゅうもん・かいろうあと)
ここには、塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とその中に入るための正門である中門がありました。
1966年と1993年に行われた発掘調査の結果、中門は東西21m× 南北11m程の土台(基壇)上に建つ瓦葺きの建物だったと推定されています。
廊跡からは、礎石上に柱の痕跡があるものが7基みつかり、周辺から瓦が多く出土しました。回廊は一般的に東西南北に廻らされますが、相模国分寺では東面が築地塀であったことが確認されており、西面についての詳細は不明です。
現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に中門と回廊の範囲を表示しています。
海老名市教育委員会 2019年2月

相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。
819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中頃までは修理や再建が行われていたようです。
しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれています。
相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。
明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校(現在市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」 という研究書にまとめました。
こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10)3月3日に相模国分寺跡は「国指定 史跡」となりました。
海老名市では貴重な文化遺産である史跡相模国分寺跡を現状のまま保存するだけではなく、復原・整備をする環境整備事業を平成元年度 (1989) から始めました。
1966〜67年(昭和41〜42)の発掘調査結果をもとに、1990〜1996年(平成2〜8)にかけて塔跡、中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、史跡整備に必要な資料をそろえました。
基本的な整備計画は、相模国分寺の創建時の遺構を整備することにしました。具体的には、塔・金堂・講堂の基壇復原、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、現存する礎石は現位置で保存する計画です。
2000年(平成12)3月 海老名市

奈良時代、聖武天皇は仏教の力で国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。 七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲んでいます。その外側は素掘りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります。
七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。瓦は乗越瓦窯(横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(東京都町田市)などで焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。
通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(平塚市)、 国分寺は国府から約12キロも離れた高座郡(海老名市)に置かれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生氏という同じ氏族であったからではないかとされてい ます。ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、二寺が並び立つ様子は壮観だったことでしょう。
相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。
海老名市教育委員会 2019年2月
- 相模国分寺跡 文化遺産オンライン
- 史跡相模国分寺跡 - 神奈川県ホームページ
- 国指定史跡 史跡相模国分寺跡・尼寺跡|海老名市公式ウェブサイト
- 史跡相模国分寺跡発掘調査 第12次調査の結果について|海老名市公式ウェブサイト
相摸国分寺跡は昨年、海老名市立郷土資料館の企画展を鑑賞したときにも立ち寄ったが雨降りだったので直ぐ引き返した。
海老名市立郷土資料館に展示されている相摸国分寺跡の100分の1の模型
