加曽利貝塚の現地説明会の前に、市川市の曽谷遺跡に立ち寄った。




史跡 曽谷貝塚 (そやかいづか)
指定 昭和54年12月22日
指定地面積 42,141.64㎡
所在地 市川市曽谷2丁目ここは、今から3〜4,000年くらい前の縄文時代も終わりに近いころ、私たちの祖先である縄文人が、住居をつくり、生活していた遺跡です。あたりには、貝の殻がたくさん散っていますが、ここで生活した縄文人が海辺で貝をとり、ここまで運んで身を食べ、殻を捨てたことによるものです。このような貝殻の散っている遺跡を、特に貝塚とよんでほかの遺跡と区別しています。
貝塚は、標高約20〜25mの下総台地に立地しています。それも平らなところではなく、窪み周りが北を除いて上手状に高くなっているという、少し起伏のある微地形を選んでいます。貝殻は、このU字形の上手状の高まりに乗るように分布しています。この窪地を巡る高まりの地形が大きいことを反映して、貝層分布の範囲は、外径が南北約240m、東西約210m、内径が南北約210m、東西約60〜80mと、日本有数の規模をもっています。このような、C字やU字形に貝層が分布している貝塚は、「馬蹄形貝塚」とよばれています。
この土手状の高まりは、周辺ではここだけにあるものですが、水はけの良い場所であったらしく、縄文人はここに竪穴住居をつくって住んでいました。そして住まいの周りには、食べかすとしての貝殻や骨、あるいは壊れた土器や石器などの道具を捨て、死んだ仲間を埋葬するなど、彼らの集落生活を物語る痕跡が多くみられます。これまでに、40軒をこえる竪穴住居の跡、20体をこえる埋葬人骨が発見されています。しかし、未発掘の面積の方が調査の済んだ面積よりもはるかに多く、まだまだたくさんの住居跡や人骨が、曽谷の縄文人の使った道具などといっしょに埋もれています。
曽谷貝塚の名を学界で有名なものとしたのは、昭和12年の山内清男氏による「曽谷式土器」の提唱によるものです。この例数の少ない「曽谷式土器」を発見しようというのが、その後の曽谷貝塚調査の重要なテーマでした。
今から3〜4000年前、このあたりは、コナラを中心にクリなど冬に葉が落ちる落葉広葉樹林でおおわれ、シイ・カシなどの照葉樹が次第に増えてきたことが想像されます。クリ・トチノミ・いろいろなドングリの実が、大量に採集され、保存食にもなったと考えられます。そこは、イノシシやニホンジカなどのいる山野でもあり、弓矢などでとっていました。貝や魚は、すべて海のもので、おそらく2km以上離れている菅野付近まで出かけ、海辺の干潟でハマグリなどの貝をとり、また海に出てスズキやクロダイなどの魚をとっていたことでしょう。豊かな自然の恵みが、この曽谷の縄文ムラでの生活を豊かなものとしていたのです。










そこかしこに貝殻の破片?


企画展「楽石雑筆」では、千葉県曽谷貝塚で出土した #人骨 を展示中。調査経過が文献で確認できる最古の事例です!ここからは、2体の人骨が仰向けに頭を向かい合う状態で見つかったそうです!#考古学 #貝塚 #大場磐雄 #楽石雑筆 pic.twitter.com/NUd6zRZDpM
— 國學院大學博物館 (@Kokugakuin_Muse) 2020年12月15日
